脇田玲

第8回:アフターインターネット時代の思考経済

いま「ラボ」や「リサーチ」を冠した組織が、アフターインターネット時代のビジョンを作りあげつつある。彼らはスピード感と軽やかさを武器に、新しい技術の可能性を社会に問い続けているのだ。ラボやリサーチをイノベーションの駆動力とする「ラボドリブン社会」とはどのようなものか。ビジネスからアートまで、最先端の現場からラボの新しい姿を解き明かす。

思考経済のおさらい

前回のコラムではエルンスト・マッハの「思考経済」(思惟経済)の概念を紹介した。この概念の復習がてら、物理学の進歩を思考経済の視点から振り返ってみたい。

15世紀までのヨーロッパでは天動説が支配的だった。世界の中心に地球があって、その周りを天体が運動しているという世界観だ。もちろんこの背後にはキリスト教の影響があり、宇宙の完全性や美的な観点から、天体の軌跡は円運動の組み合わせによって記述された。ただこの方法だと、星が見つかるたびに円運動の組み合わせを追加していくことになるため、非常に複雑なものであったはずだ。

その後、コペルニクスが仮説として地動説を唱え、天動説との間に長い論争が続くことになる。ティコ・ブラーエは精密な観測こそが重要と考え、望遠鏡によって多くの観察データを構築した。その弟子のケプラーは太陽を中心に円ではなく楕円でブラーエの観測データを再解釈すると、完結に軌道を記述できることを発見した。数学的には円も楕円の一部である。シンプルな記述で多くの現象を説明できるようになったのは、経済的な発展と言える。

そこからガリレオは、強力な望遠鏡を自作し、木星を周回する衛星を発見したことで、すべての惑星が地球を周回するという天動説を打ち崩す。そして、ついに、ニュートンが万有引力の法則を発見し、天と地などという区別のない、宇宙という一つの概念による世界の記述が可能になる。円運動の膨大で複雑な組み合わせに始まった世界の記述は、楕円へと進歩し、とうとうシンプルな数式に行き着いたのだ。物理学は、先人の膨大な観測経験を用いて不要な労働を節約するとともに、簡潔な記述を試み続けてきたことがよくわかる。

一般に科学においては、「過去の先人の経験で自らの思考を節約する」という経済的な法則がはたらく。一人の限られた能力で世界を把握するためには力を節約する必要があるからだ。つまり科学とは、経済的に秩序立てられ、常に再利用可能な形で再構築され続けてきた過去の実験経験のことなのだ。マッハはこのような科学の特性を「思考経済」(思惟経済)と呼んだ。この視点に立てば、リサーチとは膨大な他者の知性を学習を通して自身に蓄積し、そこから新たな知を生成する行為と言える。そして、その実践の場がラボなのだ。


インターネットによる間口の広がり

インターネット以後、世界中の様々な人と物がつながることで、これまでとは異なる思考経済が生まれている。特徴の1つは間口が広がったこと。科学者でなくても最新の研究成果にアクセスできるようになったのだ。

例えば、ACM Digital Library というサイトでは、米国計算機学会(ACM, Association for Computing Machinery)の過去のほとんどの論文にアクセスできる。計算機学会という名称からはお堅い学術会議を想像されるかもしれないが、その研究範囲はとても広く、インタラクション技術、コンピュータ・グラフィックス、VR、デジタル・ファブリケーション、認知科学などまで含まれる。毎年注目を集めるSXSWやアルス・エレクトロニカで発表される作品の多くも、ACMに投稿された研究に技術的、思想的背景を持つものが多いのだ。このデータベースにアクセスすれば、情報技術を用いた研究や創作について、世界規模で思考経済の恩恵を受けられる。

インターネットは、本質的に脱中心的な技術なので、一部の人や組織に情報や力が集中するのを避ける。さらに言えば、自律、分散、協調、互恵のシステムを構築する方向に力がはたらく。そのために、アフターインターネット時代のラボやリサーチが科学者だけのものではなくなりつつあるのだ。ネット上のすべてのものには、間口を広げ、個人がエンパワーメントされるような力が作用している。ラボという場所が民主化していくのも自然のことだと思う。


オープンソースと思考経済

インターネットの発展と合わせて普及した「オープンソース」の思想も、思考経済と関係している。オープンソースはソフトウェアの世界から始まった概念で、プログラムの中身(ソースコード)を公開することで、他者による再利用や改変を認めるというものだ。市販のソフトウェアの多くは中身が見えないブラックボックスなので、僕らはユーザとして向き合うしかない。だけど、オープンソースのソフトウェアであれば、ソースコードを熟読して思考過程を追体験することや、必要な部品だけをピックアップして自分の創作に利用することも可能だ。

オープンソースのプログラムは、最初の数行(ヘッダと呼ばれる部分)に、オリジナルの製作者と作成年月日、それに手を加えた人の名前と年号、追加された機能、今後修正すべき場所などの作業履歴がすべて記載されている。思考経済のプロセスが記録されていると言ってもいい。

現在はリポジトリと呼ばれる一元的なソースコード管理システムが普及している。その一つであるGithubは最もポピュラーなリポジトリだ。ネットを通してソースコードのバージョンを管理でき、膨大な他者のソースコードにもアクセスできる。インターネットとオープンソースにより、先人の経験を効率的に利用するのみならず、思考のエッセンスや細かいテクニックへのアクセスも可能になっている。


IoT環境と思考経済

あるいはIoT(Internet of Things)デバイスの創作にも、思考経済がかなりはたらいている。IoTデバイスの一般的な開発環境として知られるArduinoは、設計図が公開されているオープンハードウェアだ。そのおかげで、指先サイズほどに小型化された8pino 、ウェアラブル専用のLilypad 、お絵かきと電子工作の連携が可能なTouch Board など様々なクローンが普及している。

かつてハードウェアを使ったものづくりは電子工学の知識が必須で、アセンブラでのプログラミングや半田付けの作業も必要なので技術者や科学者以外にとってはハードルが高いものだった。Arduinoは電子工作やプログラミングの詳細や記述は隠蔽化もしくは記号化し、クリエイターの限られた能力だけでプロトタイピングに必要な思考を展開し、記述できるようなフレームワークが構築されている。そのため、最近では美大生が作品に使うことも増えてきた。高校生や中学生向けのワークショップまでも存在しており、半日程度の作業でインタラクティブなガジェットを作り、お土産として持ち帰れるイベントもある。そこで出来上がる作品が案外馬鹿にできないものもあって、一昔前の大学院修士レベルの作品をつくる高校生もいるものだから驚きだ。


思考経済とコンピュテーション

以上のように、計算というものが生まれて以来、それは常に経済的に管理されながら発展を遂げてきた。九九の表や対数表として算術経験を節約していた時代に始まり、代数が生まれて数の代わりに文字や記号が使われるようになった。記号によって思考は軽減され、算術をより高度な思考と機械的な仕事とに切り分けることが可能になった。さらにコンピュータが生まれ、抽象的な概念操作は人間が行い、労働としての計算はコンピュータが担うようになった。プログラミング言語とアルゴリズムのコモディティ化、インターネットとオープンソースの作用によって思考経済は地球大に展開した。

今回はインターネット時代の思考経済の特徴について述べてきたが、この経済圏は今後はどのように発展していくのだろうか? 貨幣の経済は、組合レベルのやり取りに始まり、都市、国家、大陸とその規模を拡大してきた。そして、海運や空輸という大陸間をネットワーキングする物流技術によって急速に地球規模に拡張した。思考の経済も、インターネットというかつてない高速で網羅的なネットワーキング技術により、同様の拡張を遂げていくだろう。貨幣経済はもはや制御不能になりつつあり、ある種ディストピア的発展を遂げたわけだが、思考の経済はどのように進化していくのだろうか。ちょっと怖いが、ワクワクもする。
 

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