ちくま新書

朝ドラで女子が盛り上がるのはなぜか。

あなたの家やあなたの職場の女子たちの本音が、朝ドラを介してわかるかも!? まずは「まえがき」から読んでみて下さい。

 働く女子のことがわからない。そう思っている人、とくにおっさん(と書いてしまう)は多いらしい。
 私自身、三十五年近く、働く女子というのをしてきた。新聞社で記者をし、転職し、雑誌の編集をした。少し早めにリタイアしたが、わが会社人生を省みても、なかなかめんどくさい代物であることは、自覚している。
 例えば日々の職場での様子ひとつとっても、ご機嫌だったり、不機嫌だったり。
 仕事がうまくいっていればご機嫌だろうと思うのだが、うまくいっても不機嫌だったり、失敗してもご機嫌だったり。それぞれにしかるべき理由はあるつもり。だけど説明は、しないのか、できないのか。
 会社のえらい人との接触では、仏頂面が基本だ。
 えらい人の言うことを、無条件でありがたがるのは違うと思う。それが基本にあるのだが、それでは通らないこともわかっている。笑顔で言うことを聞いてしまえる人がうらやましいと思う先から、そんなことではいかん、と思う。あれこれ考えているうちに仏頂面になり、感じ悪い人になっていることも知っている。だけど相変わらず、笑わないのか、笑えないのか。
 何を言っているのだ、もっと大人になりなさい。
 そう言いたい人が、男女を超えてたくさんいることも、わかっている。が、なれない。つくづく、めんどくさいヤツだ。
 そんなヤツにも、友だちがいる。毎朝、午前八時に待っていてくれる、優しい友だち。名前を、朝ドラという。

 朝ドラ。一九六一年、「娘と私」で始まったNHKの「連続テレビ小説」のこと。今もNHK的な正式名称はこちら。
 日本でテレビ放送が始まった最初の頃、放送時間は昼と夜だったそうだ。しばらくして朝も放送を始めたが、その時間帯にテレビを見る習慣がついてないから、なかなか見てもらえない。困ったNHKが、女性なら通勤も通学もしないから、朝からテレビを見てくれるはずと、ターゲットを絞って始めたドラマ。新聞に小説が載っているように、テレビに小説を、ということで「連続テレビ小説」。二作目以降、午前八時十五分からオンエア。
 それから幾星霜。つい最近まで、毎朝出勤する女子だった私が、朝ドラを心の友としている不思議。
 なぜかしらん。
 そう考えたとき、「合わせ鏡」という言葉が頭に浮かんだ。
 朝ドラは、自分というものの、後ろ姿を見せてくれる。ふだんは見えてない自分が、ヒロインを通して見えてくる。自分の気持ちが見えてくる。己が心をわかってくれる友は、大切にしなくてはならない。

 連続テレビ小説を一躍有名にしたのは、「おはなはん」(一九六六年)という作品だ。NHKアーカイブスというウェブサイトを開くと、今でも初回を見ることができる。樫山文枝が演じるおはなは、振袖姿で木に登っている。父が勝手に決めた見合い相手がやって来るのを、木の上からいち早く見てやろうとしているのだ。
 木登りは、「おてんば」の象徴だと思う。男の子の専売特許とされるものに挑む。それはつまり、型にはまらないということだ。
 おはなは、母に叱られている。「これ、何しとるんで、こがい大事な日に」。こう返す。「ほじゃけん、見とるんよ。どないな婿さんじゃろか思うて」。
 父は見合い相手を決めたくせに、写真も持ってこない。それが不満なおはなは、木の上から相手を見定めようとしているのだ。自分で結婚相手を決めたいという、意思のあらわれ。それが木登り。
 そのことは、見ている女性に伝わったに違いない。型にはまらず、自分で自分の結婚を決めようとするおはな。見合い相手を好きになり、結婚し、子を産み、夫を亡くし、戦争という理不尽と向き合い、戦後まで描き、「おはなはん」の平均視聴率は四五・八%。この人気が、以降の「連続テレビ小説」の路線を決定した。
 一般的にはそれを「女の一代記」路線というのだが、私は「おてんばの一代記」だと思っている。おはなのように、型にはまらず、自分で自分を決めたい女子がヒロイン。もう誰も連続テレビ小説とは言わなくなった今も、朝ドラがコンテンツとしての力を失わないのは、ヒロインがおてんばだからだと思う。

「おてんば」を漢字で書くと「お転婆」。当て字だそうだが、ババが転ぶとは言い得て妙だ。ババは目をつぶるとして、「転」だ。立たないで、転んでいる。通常は立っているわけだから、例外ということだろう。
 例外の方から言わせてもらうと、転んでいるのにはエネルギーがいるのだ。こちらにはそれが通常だとはいえ、転べばやはり、時々は痛かったりもするのである。
 働き方は多様な時代になった。NHKがかつて頼りにした専業主婦という人も、組織のなかで働いている、または働いたことがある、そういう人がほとんどだろう。今を生きる女性は、多かれ少なかれ働く女子だ。そんな変化も踏まえ、NHKも八年前に朝ドラの放送時間を繰り上げ、午前八時にした。
 だが、多様な働き方が豊かさにつながらず、むしろ窮屈度が上がっているように思う。経済成長ってなんですかという時代にあって、効率と結果ばかりが求められる。そのうえ、なんだかんだと言っても、社会のルールを決めているのはおっさんだ。
 おっさんが決めた型に合わせるのは、楽しくない。せめて自分で自分を決められればいいが、そうしようとしても、おっさんという壁が立ちはだかったりもする。
 おてんばには、相変わらずの受難の日々。それでも朝ドラに目をやれば、いつもヒロインが奮闘している。生きる時代も置かれた立場もさまざまで、「職場」で「労働」しているとは限らないけど、ヒロインはいつもおてんばだ。与えられた環境のなかで、あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、それでも前を向いている。
 ヒロインたちを、「おてんば、がんばれ」という気持ちで見る。夫あり子なしの私だが、その姿に過去の自分を重ね、なつかしい気持ちになる。まだ自分も、あちこちに転がってぶつかって、それで痛いのだと気づいたりもする。
 ダメなヒロインに怒ったり、働く女子がまるでわかってない展開だと憤ったりすることもある。それでも見続けるのは、やはり、朝ドラが、合わせ鏡だからだ。
 気の合う働く女子同士で会うと、朝ドラトークが盛り上がる。「あの俳優、いいよねー」「あの展開は、ないんじゃない」。そんな感想のやりとりなのだが、盛り上がる。
 働く女子はみんな「おてんば」だ。型にはめられたくない。自分で決めたい。そんな意思を胸に、現実と折り合いをつけようとしている。だから朝ドラに、自分を重ねる。思いを、語りたくなる。

 昔から好きだった朝ドラだが、この十年ほど、ますます熱心に見るようになった。自分のことを考える余裕と、考える材料。両方が増えたことと、無縁でないのかもしれない。折しもこの十年は、朝ドラの存在感が増した時期でもある。テレビ離れが言われる時代で、近年は平均視聴率二〇%超えが普通になっている。テレビドラマ界のエリート。
 エリートにはエリートなりの努力と工夫がある。そんな朝ドラを見て、朝ドラトークをして、考えたことを書いた。
 自分の機嫌不機嫌のもとが、どこにあるのか。どんな生き方が好きで、どんなことに憤るのか。おっさん(だった、かなり)の多い職場で働いた三十五年近い体験をもとに、そのことを言葉にしていく作業だった。
 書いているうちに、心の中のぼんやりした思いが形になっていった。自分も気づいていなかった、心のうち。それが書けたから、朝ドラという合わせ鏡を通して見えた「働く女子」の本音が詰まった本になったはずだ。
 女子たちに「そうそう、その通り」と気持ちよく読んでいただけたら、本望だ。
 そして働く女子がわかっていないおっさん(と書いてしまう)たちに、「へー、そうなんだー」って感じで読んでもらえたらいいなと思っている。
 そうしたら、あっちこっちで転んでいるおてんばたちも、女はわからんと嘆いているおっさんたちも、どっちもちょっと楽になるんじゃないかなー、と思う。
 そうなったら、すごくうれしい。

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