それ、ほんとの話? 人生につける薬Ⅱ

第1回 犬が人を噛んでニュースになるにはだれを噛めばいいか?

『人はなぜ物語を求めるのか』に続く、千野帽子さんの新連載開始!!

人が犬を噛んだらニュースになる?


 犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛んだらニュースになる。という言葉があります。
 これを言ったのは米国のジャーナリストだとか、英国の新聞王だとか言われていて、それが果たしてだれなのかは諸説あります。
 書かれて残っている初期の例は、米国の小説家ジェシー・L・ウィリアムズの『盗まれたストーリー』(1899)所収の「老記者」のなかで、若い記者たちの知恵袋兼メンター的存在であるビリー・ウッズという人物がこのように言った部分だそうです。

 〈「犬が人を噛む」──これはストーリーだ。「人が犬を噛む」──こっちはいいストーリーだ〉(拙訳)

 これは、〈いいストーリー〉はニュースになる、つまり人の注意を惹き、耳目を集める、ということを言っています。
 また、〈いいストーリー〉は得てしてレアなできごとである、ということも言っています。
 それにしても、人が犬を噛むと〈いいストーリー〉になるというのはどういうことでしょうか?
 犬が人を噛むストーリーよりも人が犬を噛むストーリーのほうが語る価値がある、と人はなぜ思うのでしょうか?

 外的要点──なぜ「その」ストーリーを語るのか?
 米国の計算機科学者ロバート・ウィレンスキーは、1983年の論文「ストーリー文法とストーリー要点」で、ストーリーを語ることを正当化しうる理由や目標を〈外的要点〉と呼びました。〈外的〉というのは、この理由や目標が、話の本文(テクスト)とそれを取り巻く文脈(コンテクスト)の関係から発生する〈要点〉(ポイント)だからですね。
 スイス生まれの文学理論家でソフトウェアコンサルタントでもあるマリー=ロール・ライアンが、この概念を受け継ぎ、いくつか実例を挙げています(必ずしも網羅的な列挙を意図したわけではないようです)。
 たとえば人は、相手が知りたがっている話であれば、それを話すことがある。ライアンは明記していませんが、このばあい、話す当人はその話をつまらないと思っていても、相手が知りたがっているなら、その話を話す理由になりますね。
 あるいは、歴史小説は作り話であるにもかかわらず、歴史上のある時代、ある地域のことを書きたくて作者がそれを書き、また読者も歴史上のその時代、その地域のことを読みたくてそれを読む、ということがあります。
 さらには、なにか教訓を与えるために、特定のストーリーを物語ることがあります。イソップ寓話がその典型です。
 また、以前僕がwebちくまの連載「人生につける薬」第15回で書いたように、
 〈芸人が滑稽な話をして聴き手を笑わせたり、小説家がエロ小説で読者を性的に興奮させたり、稲川淳二さんが怪談話で聴衆を怖がらせたりするのは、特定の感情的リアクションを起こすことを娯楽コンテンツにした結果〉
なのです。

 人が犬を噛むストーリーを語る理由
 では、人が犬を噛むストーリーを語る理由は、上記のどれでしょうか?
 これを怖く書けばホラー小説となり、笑えるように語ればジョークとなりましょう。
 あるいはなんらかの教訓を無理やり持たせることも可能です──「人が犬を噛む事案が発生した。これも政権が悪い!」。すみません。教訓になってませんでした。
 でも、そういう外的要点を持つためには、けっこう話のアレンジがだいじになってしまいますね。
 それよりも、素直に考えれば、
「犬が人を噛むのはよくあることだが、人が犬を噛むのはあまりないレアなことである」
という事情が、人が犬を噛むストーリーを語る理由である、ということになるでしょう。
 ストーリー内で起こるできごとが、社会における〈蓋然性の公準や道徳の公準〉から逸脱すること、これが人が犬を噛むストーリーの外的要点なのです。
 〈この規則に従えば、尋常ならざるできごと、問題を孕んだできごと、あるいはけしか らぬできごとこそ報告価値があるということになる。この型の要点はニュースの本質そ のものであり、とくにその強烈な例がタブロイド紙に載るたぐいの話だ〉
 (ライアン『可能世界・人工知能・物語理論』[原著1991]拙訳、水声社《叢書・記 号学的実践》第24巻、259頁。引用者の責任で改訳しました)
 起こる確率が低い珍しいできごとや、人の顰蹙を買うできごと、これは日本だとTVのワイドショウや週刊誌の好餌です。
 でもね、僕はこうも思うんですよ。
 犬が人を噛んでニュースになるには、有名人を噛めばいい。
 そもそも、犬がどっかの人を噛んでもニュースにならないが、犬が俺を噛んだら俺にとってはニュースだ。
 なぜなら犬が人を噛めばただのストーリーですが、犬が僕を噛んだなら、それは大げさに言えば「実存的」なストーリーだからです。

 人間は物語を必要としている?
 ウェブで、TVで、新聞や雑誌で、僕たちは毎日のようにニュースに接しています。事件報道や天気予報、経済情報など。
 つまりこれは、僕たち人間が日々、ストーリーを摂取しているということを意味しています。ストーリーとはできごとの報告、あるいは予測です。
 だとすると、要するに、僕たち人間が生きていくうえで、ストーリーを摂取する必要がある、ということなのでしょうか?
 たしかに、人間は物語を必要としている、ということが、よく言われます。
 2011年の東日本の大地震のあとには、とくによく言われました。
 その夏、震災のショックがさめやらぬなか、ある雑誌が震災がらみで「物語」特集を組んだときに、僕も寄稿させていただいたことがあります。
 できあがった雑誌はとてもクォリティの高いものでした。ただし、その特集は全体的に、震災後の混乱と不安のなかで、生きるよすがとなる物語がいまこそ必要である、て感じの論調だったのを覚えています。
 その号のなかで、「物語」のあまりポジティヴでない側面についても書き、物語は取扱注意物件だ、というふうに話を持っていっていたのは、僕と、小説家の保坂和志さんくらいだったのではないか、と記憶しています(ほかに読み落としていたらごめんなさい)。

 人間は不可避的にストーリーを合成してしまう
 人間は物語を必要としている、というのは、まるで人間が、自分の外にある日光や水や酸素と同じように、物語を外から摂取することが必要であるかのようなイメージですよね。
 僕はこれとは違うことを考えています。
 人間は生きていると、二酸化炭素を作ってしまいます。そして人間は生きていると、ストーリーを合成してしまいます。人間は物語を聞く・読む以上に、ストーリーを自分で不可避的に合成してしまう。そう思っているのです。
 生きていて、なにかを喜んだり楽しんだり、悲しんだり怒ったり、恨んだり羨んだりするのは、その「ストーリー」による意味づけのなせるわざです。
 「喜んだり楽しんだり」の部分だけを拾って生きることができればいいのですが、なかなかそうはいきません。「苦」とか「生きづらさ」とかを生み出しているのが、ほかでもない「喜んだり楽しんだり」の部分なのですから。
 ライフストーリーという言葉があるように、人間は自分の人生をストーリーとしてとらえます。しかもそのとき、できごとを年表や履歴書のようにただたんに時間順に把握するだけでなく、
「あのときあのようなチョイスをしたから、現在の自分があるのだろうか?」
と考えて、自分の現状がこのようである原因・理由を探してみたり、
「自分はなんのために生きているのか?」
といきなり人生の意味・目的への問を立ち上げたりして、苦しんでしまいます。
 自分でこういった問を立てておいて、もしもなんらかの安易な答に飛びついたならば、きっと裏切られてしまうでしょう。
 また、誠実な人だったら、こういった問に答が出せなくて、きっと余計苦しくなってしまうことでしょう。
 答なんて出なくて当然です。だって、
「あのとき、あのチョイスをしたから、現在の自分があるのだろうか?」
「自分はなんのために生きているのか?」
なんていうのは、語の定義の曖昧な贋の問なのですから。
 しかし、ものすごくつらい思いをしている人、苦しい目にあった人にとって、それでもこういった問は切実な問であることにかわりはないのです。

 『人はなぜ物語を求めるのか』
 昨年(2017年)の3月に、ちくまプリマー新書から『人はなぜ物語を求めるのか』という本を出しました。この《webちくま》での連載「人生につける薬 人間は物語る動物である」(2016年4月から2017年正月)に加筆したものです。
 あなたがいま読んでくださっているこのページの、〈ウェブで、TVで、新聞や雑誌で、僕たちは〉からの2節は、その本の「あとがき」に書いたことでした。この本は「物語論(ナラトロジー)」という学問の人間学的バックボーンについて書いた本です。
 というように、この連載『それ、ほんとの話?』は、『人はなぜ物語を求めるのか』という本(あるいは前の連載「人生につける薬」 )から、そのままダイレクトにつながっています。字数の都合で前回の本に書けなかったこと──たとえば「真実」とか「偶然」とかいった話題──について、書いていこうと思います。
 だから、もし拙著をお読みでなかったなら、今後はこの連載と併せて前の連載をご参照ください(いちばん大事なことは本に書いてしまってwebでは読めないのですが……)。

 

この連載をまとめた『物語は人生を救うのか』(ちくまプリマー新書)好評発売中

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