関空閉鎖で、海外に足留めを喰らいました
毎度毎度、書く内容は決まっているのに、時間がなくていつもこの連載をギリギリに入稿しています。
今回は最大のピンチ。海外から、関西国際空港行き現地時間9月4日午後発の便で帰国する予定だったのですが、日本時間4日、台風21号の影響で関空の滑走路が冠水、また強風で流されたタンカーが衝突して本土との連絡橋を損傷、関空発着便はすべて欠航となったのです。結局成田経由で帰国し、日本時間9月8日夕方、3日遅れの帰宅となりました。
日本では7月から9月までは台風がとくに多い時期ですから、こういうアクシデント(accidentの訳語には「事故」「災害」もありますが「偶然」もあります)が起こる確率は他のシーズンに比べてみれば高いはず。でも、自分とか身近な知人の身にこれが起こってしまうと、このアクシデント=偶然を、偶然ではなく必然だと見なしたくなる。
つまり、そこに「実存」的に意味づけしたくなるわけです(前回および第5回参照)。
足留めを喰らっていたのが、べつに英語もフランス語も通じない政情不安定な国の大都市というわけではなく、なにしろ日本語がつうじることすらある、しかもパワースポットと見なされているワイキキの浜辺という、危機感の似合わない暢気な場所だったもので、この体験を話しても本気で同情されません。
どなたも口先では「それは大変でしたね」と言いながら、すぐに「それは神さまが引き止めてるんですよ」と、冗談とはいえ必然と見なしてくれるのです。だから、いろんなことを自分に都合よく考えてしまう僕が、出発前夜、夏休みの終わりが近づくのを寂しく思いながらホテルの乾燥機から衣類を出しに行こうとしていたまさにそのとき、帰国便の欠航を知らせるメール(送信時刻はほんの10分前)を見て、その瞬間、
「これは『もう少し休むがよい』という天の声、神命なのではないか?」
と意味づけしたくなってしまったとしても、どうか怒らないでください。
必然性vs.同時性、因果vs.確率
前回紹介した3つの小説について、思い出しましょう。
ネルヴァルの『オーレリア』では、大豪雨に遭遇した主人公が、路面に溢れ出す水に指輪を投げ入れたまさにそのとき、たまたま雨がやんだ。
トゥルニエの『魔王』では、主人公が冤罪で拘束されているまさにそのとき、たまたま独仏両軍が実戦に突入し、未決囚だった主人公は解放されて前線に動員された。
バラードの『太陽の帝国』では、主人公が遊びで手旗信号を出したまさにそのとき、たまたま日中両軍が実戦に突入した。
つまり、主人公がある行為をしたり、ある状況に置かれたりしたまさにそのとき、たまたま主人公の環境にかかわるできごとが発生する。それを偶然=「ただのまさにそのとき(同時性)」なんかではなく、自分を原因とする結果だ、必然だ、と主人公たちは考えるわけです。
ブルガリア出身の文学理論家・批評家ツヴェタン・トドロフは、『幻想文学論序説』(1970。三好郁朗訳、創元ライブラリ)の第7章で、つぎのように述べています。
幻想文学では多くのばあい、〈人間にくらべてはるかに力のある超自然存在が出現する〉。〈一般的にいって、超自然存在は、その場に不在の、なんらかの因果律を補うために出現する〉。
〈既知の原因〉で説明がつかない〈どう見ても偶然の仕業としか思えない出来事が起こる〉(以上164頁)ばあい、〈仮に偶然というものを容認せず、普遍的因果律というか、あらゆる事象間に必然的関係を措定しようとするのであれば、どうしても、超自然的な力や存在(その時点まではわれわれにとって未知のもの)の干渉を認めるほかなくなる〉。
〈人間の幸運を保証してくれる妖精といった存在は、一般に幸運とか偶然とか呼ばれているものについての、「想像的原因」の具現化にほかなるまい。〔……〕
「運」だの「偶然」だのといった言葉が、幻想世界のこの部分からは締め出されている〔……〕。これを、普遍化された決定論、あるいは「汎決定論」ということもできよう。さまざまに異なった因果系の出会い(すなわち「偶然」)まで含めて、文字通りに一切がその原因を有している、たとえ超自然に類するものでしかないにせよ、かならずどこかに原因がみつかるというのである〉(以上165頁。引用者の責任で太字強調・改行を加えました)
異なった因果系が偶然クロスしてしまう
トドロフの言う〈異なった因果系の出会い(すなわち「偶然」)〉とは、上記の主人公たちの身に起こったことでもあり、また「夏休みが終わらなければいいのに」と思っていた僕の身に起こったことでもあります。
『オーレリア』の主人公の指輪を投げる行為と、雨がやむという気象の動きとは、ふたつの〈異なった因果系〉に属しています。僕の「夏休み、終わらないでくれ!」という強い念と、台風21号という気象の動きも、ふたつの〈異なった因果系〉に属しています。
けれど、『オーレリア』の主人公は〈この宇宙では何一つ無縁のものはなく、何一つ無力なものはない〉(田村毅訳、第2次『ネルヴァル全集』第6巻『夢と狂気』所収、筑摩書房、93頁)と言って、その両系列を必然の環で結びつけようとするのです。
この主人公は、傍から見れば「ちょっとおかしい人」かもしれません。しかし、僕ら人間には、大なり小なり彼と同じ種類のバグが見られるのです。この問題については、拙著『人はなぜ物語を求めるのか』のもととなった連載「人生につける薬」の第2回「どこまでも、わけが知りたい」で紹介したなぞなぞ(100パーセント成功する雨乞いの踊りとは?)を参考になさってください。
英国の哲学者ジョン・スチュアート・ミルは、『論理学体系 論証と帰納』(1843)の第3巻第17章第2節で、つぎのように書いています。
〈いずれの現象も偶然によって生ずるというのは正確ではない。しかし二つ以上の現象が偶然によって連合している、ただ偶然によってのみ相互に依存しまた継起する、と言うことはできる〉
(大関将一+小林篤郎訳、春秋社、第4分冊425頁)
〈相互に依存し〉と訳しているところの原文はcoexistです。だからここは、哲学者・九鬼周造が『偶然性の問題』(1935)の第2章第13節で引用し、訳したように、〈同時に存在し〉(岩波文庫、123頁)と訳すほうがよいのではないかと思います。なお九鬼はこのような、
〈二つ以上の事象間に目的以外の関係の存在することを積極的に目撃する場合〉
や、
〈二つ以上の事象間に因果性以外の関係の存在することを積極的に目撃する場合〉
を、それぞれ〈仮説的偶然〉のなかの〈経験的偶然〉に属する〈目的的積極的偶然〉〈因果的積極的偶然〉と呼んでいます(同前74、85、122頁)。九鬼の偶然論については、機会があれば改めて取りあげる予定です。
「まさにそのとき」は魔法の呪文
まさにそのときというフレーズは、ただの同時性を示す言葉です。できごとの必然性を蒸発させ、確率の世界に引き戻す「偶然の召喚魔法」、それが〈まさにそのとき〉なのです。
前々回紹介した小説『不滅』のなかで、作者と同名の小説家〈クンデラさん〉は、このように言っていました。
〈Z地点であることが起こると必ず、A、B、C、D、E地点でもほかのなにかが起こる。「そしてまさにそのとき……」というのは、小説に出てくる魔法の呪文だ。『三銃士』なんかを読んでるとこれが出てきて、うっとりしてしまうよね〉
(KUNDERA, Milan, L’Immortalité (Nesmrtelnost [1990]) in Œuvres, éd. définitive, tome 2, avec une biographie de l'œuvre par François Ricard, Paris : Gallimard, coll. « Bibliothèque de la Pléiade », 2011, p. 187 ; 拙訳。太字強調も引用者による)
そして前々回引用したように、こういう偶然の魅力に満ちたまさにそのときが、必然性ばかりで作られた昨今の小説からは失われてしまっている、と彼は嘆いていたのでした。
不良浪人チームが町娘に路上セクハラをしかけたまさにそのとき、たまたま通りかかった〈金さん〉と称する遊び人が、
「お待ちなせえ」
と浪人のひとりの利き腕を取り押さえるとか、
「ヤバイ! 転校初日から遅刻遅刻〜!」
とトーストをくわえて走っていたまさにそのとき、たまたま、きょうから通う学校の制服を着た男子生徒と四つ辻でぶつかってしまうとか、そういうことって、パロディ的・メタ的な用法以外では、小説の世界からは見られなくなってしまったわけです。たとえ存在していたとしても、金さんも衝突した同級生も、コンテンツのなかではしばしば、すぐに必然の赤い糸へと染めあげられてしまうのですが……。
アレクサンドル・デュマ・ペールの武侠小説『三銃士』(1844)の読みどころは〈まさにそのとき〉という同時性の表現だ、と〈クンデラさん〉が言うので数えてみました。
「何何したそのとき」のたぐいの表現は、”au moment où…”に類する表現にかぎっても、『三銃士』には少なくとも53回出てきます。日本語にすると1000頁くらいの小説だから、均すと19-20頁に1回。第60章では、ひとつの文で2回使ってるところもありました。
現代の読者は小説にたいして、ついつい「必然性」ばかりを求めてしまいます。だから『三銃士』や「遅刻遅刻〜!」のストーリーを〈ご都合主義〉と呼んだりするのです。
そんな読者も、自分の人生や現実の成りゆきについては、そこまでの必然性を求めない──にしても、ときには『オーレリア』の主人公のように、またホノルルに足留めされた先週の僕のように、「実存的」なストーリーを組み立ててしまうこともあるのですが……。
(続く)