それ、ほんとの話? 人生につける薬Ⅱ

第10回 わかったときには、「意味のあるストーリー」の形にしている

『人はなぜ物語を求めるのか』に続く、千野帽子さんの連載第10回! 自分の行動を説明するにも一般論が入ってくる?

 

自分の行動の動機説明が、〈自分の本当の心象風景からズレている〉ことがある


 前回紹介した、『黒子のバスケ』連続脅迫事件の渡邊博史被告(当時)は、犯行にあたって自分を突き動かしていた動機を、公判の冒頭意見陳述でつぎのように主張しました。

〈自分が「手に入れたくて手に入れられなかったもの」を全て持っている「黒子のバスケ」の作者の藤巻忠俊氏のことを知り、人生があまりにも違い過ぎると愕然とし、この巨大な相手にせめてもの一太刀を浴びせてやりたいと思ってしまったのです。自分はこの事件の犯罪類型を「人生格差犯罪」と命名していました〉
(『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』創出版、159頁)

 冒頭意見陳述はウェブ上に公開され、大きな反響を呼びました。その反響を印刷したものを弁護士から見せられて、渡邊さんは違和感を抱きます。どれもこれも、自分の実情とズレた論評だったからです。

〈どうしてこんなにズレた論評ばかりが並ぶのだろうか?〉(160頁)

 その時期、差し入れの月刊誌で事件が論じられているのを読み、

〈その中の「夢も叶わず」とか「叶いそうもない夢」などという記事を見て、
「自分は夢なんか持っていない! まともに夢すら持てなかったんだ!」
 という事実を思い出しました。
 そして自分は、
「冒頭意見陳述が自分の本当の心象風景からズレているから、論評もズレたものだらけになってしまったのだ」
 という結論にたどり着きました〉(160-161頁)

自分の行動の動機を、自分は知らないことがある

 ここで大事なことがふたつあります。
 ひとつは、冒頭陳述をおこなったときに、渡邊さんは〈自分の本当の心象風景〉を隠していたわけではなかった、ということです。あの時点では、渡邊さんは〈自分の本当の心象風景〉と思うものを、冒頭陳述で明瞭に答えているつもりだったということです。

 もうひとつ大事なことがあります。
 それは、あの冒頭陳述が〈自分の本当の心象風景からズレてい〉たと気づいたそのときに、

「あ、あれじゃなくて、これが自分のほんとうの動機だったんだ」

と〈自分の本当の心象風景〉なるものをひらめいたり発見したりしたわけではない、ということです。
 渡邊さんはこの時点では、

〈さて自分は一体いつどこで何をどう錯覚してしまっていたのでしょうか?〉

と〈見当もつかず途方に暮れ〉(161頁)るしかなかったのです。
 つまり、自分が行動の動機だと思っていたものが、そうではなかった、と気づきはしたものの、それでは自分はいったいなにを思い、なにを感じて、あのように大胆な劇場型犯罪へと足を踏み入れることとなったのか、ということが、まだ鮮明に前景化・言語化できてはいない、という状態に、いったんは陥ってしまったわけです。

すべての説明は「暫定的なストーリー」である

 渡邊さんはその後、差し入れられた高橋和巳医師の著書『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』(現・ちくま文庫)を読みました。
 そしてその本で得た知見を補助線として、最終意見陳述では自分の犯罪行動の動機を、まったく新しい、違った形で言語化することになります。その説明2.0は、冒頭陳述におけるそれに比べると、渡邊さんの持つ「感じ」からの〈ズレ〉は遥かに少ないものでした。

 さて、まず僕は、最終意見陳述に記載された説明は、それでもまだ、冒頭意見陳述のそれ同様、暫定的なものであると僕は考えます。

 暫定的なものと書くと、すぐに覆されて新しい説明、新しい解釈がまたあらわれると主張しているように思われるかもしれませんが、そうではありません。
 最終陳述での説明がいかに説得力のあるものであっても、それにたいして改訂が加えられることが今後ないという保証はない、いつかそれ以上に精緻な説明が出てくる可能性はゼロではない、ということです。
 そしてもしその〈それ以上に精緻な説明〉、つまり説明3.0もまた、暫定的なものであることを免れることはありません。

 このことは、自然科学における現象の説明のヴァージョンアップに似ているかもしれません。
 ある物理的・化学的・気象学的・地学的・医学的……現象の説明は、科学的な研究が進むにつけ、説明1.0が否定され、説明2.0が乗り越えられ、説明3.0がブラッシュアップされ、といったように変化してきました。それでも、ひょっとしたら現行の説明もまた、さらに新しい説明によって書き換えられてしまうかもしれない。

 自然科学と違うところがあるとしたら、個人が自分で自分の動機を説明するときに、学問の進歩のように精緻化していくとはかぎらず、たとえば人生観が変わって急にシンプルな説明に乗り換えるようになったり、なにか偏った思想や宗教にかぶれた結果、きゅうに乱暴な説明をチョイスしてしまうようなこともある、というふうにお考えください。

 この「わかった!」→「もっとわかった!」→「もっともっとわかった!」という解釈の乗り越えについては、拙著『人はなぜ物語を求めるのか』のもととなった前の連載『人生につける薬 人間は物語る動物である』の第3回で書いたことを繰り返します。

 「わかる」というと知性の問題だと思うかもしれません。
 しかし、「わかる」と思う気持ちは感情以外のなにものでもないのです。
 ペーパーテストのような正解が固定しているものを「わかる」のとは違って、現実の世界のできごとを「わかる」ときは、なにか外にある「解答篇」と照らし合わせて一致を確認できるわけではありません。

感情は「私のもの」である以前に「自然現象」である

 前項で書いたような意味で、僕は人の心のなかの、とりわけ感情や情動にかかわる現象については、その人の中で起こっている自然現象である、というふうにとらえています。

 激しい思いこみや強い怒りといったものに囚われているとき、僕たちは言ってみれば、小さな舟で漕ぎ出した海が大荒れになったような状況に置かれています。感情は僕という舟から出てくるというより、気候条件という僕には積極的に関与できない条件によってまず起こるのです。

 自分の感情ではあっても、それが起こってくることを自分で制御できません。
 これは、あらかじめ手入れしていても、気がついたら鼻毛が伸びて正面からでも見えるようになってしまっている、というのに近いかもしれない。
 できることは、起こってからどう対処するのか、複数の選択肢からチョイスすることだけです。

動機説明の困難は、だれにでも起こりうる

 自分の行動の動機をうまく説明=言語化できない、ということは、じつはだれの身にも起こることだと思っています。
 渡邊さんは、自分の動機説明にたいする世間のリアクションを読んで、自分のことを言われているとはとうてい思えず、「あれ? 違うんだよなあ……」というその違和感から、「自分の行動の動機を自分自身でわかっていない」ということに気づきました。

 先述のように、自己申告であれ他人による分析であれ、すべての動機説明が「暫定的なストーリー」であるならば、そもそも「自分の行動の動機」なんてものをまともに考えたことのない人はもちろん、自分の行動の動機は自分がいちばんよくわかっている、という自信満々な人でも、ほんとは行動の動機を履き違えて把握してしまっているということはおこりえます。
 僕だって、どういう理由でこの連載をやっているのか、ということについてはいくつかの動機を答えることはできますが、さてそれらの動機説明が今後撤回されたり「改訂」されたりする可能性はいくらでもあります。

わかったときには、「意味のあるストーリー」の形にしている

 人は、自分がその行動を「なぜやったか」を自分で理解していると感じるときには、
「こういうことがあったから、こう考えた。こう考えたから、こう行動した」
という因果的な意味を持つ暫定的なストーリーが、自分のなかでできています(この文、自分自分言い過ぎですね)。
 じつは、そもそも上の文のなかの、〈こういうことがあったから〉だって、一筋縄では行きません。「なにが起こったか」ということだって、理解するときには「意味づけ」できているのです。これについても機会があればいずれ書きましょう。

理解の背後に控える「一般論」

 僕たちが、
「自分はXという状況だった→だからYと考えた→だからZをおこなった」
という個別のストーリーを展開するとき、その背後には意識するとしないとにかかわらず、一般論が控えています。
 一般論は、このばあいだと、
「人はXという状況に置かれるとYと考える(ことがある)」
「人はYと考えるとZをおこなう(ことがある)」
という形をしています。

 つまり一般論とは、世界観であり、人間観なのです。
 人間とはどういう生き物であり、世界をどう認識するか、といったことにたいする、各個人の持つ一般論があり、それは人によって違うし、ひとりの人のなかでも、読んだ本や経験したことによって変わりうるのです。

 渡邊さんは冒頭陳述と最終陳述とで、自己像が変わりました。それは、高橋和巳医師の本を読んで人間観が変わったからです。
 高橋医師は『消えたい』で、幼児期に被虐待経験を持つ人たちの個別例を複数紹介し、そこに共通して見られる特徴を一般論(ただし法則的ではなく、確率的な)として述べています。
 その諸例に渡邊さんは、自身の少年期の体験との共通点や、犯行当時から公判中にかけてのものの感じかたとの共通点を、ひとつならず発見します。
 つまり、自分のそれまでの世界観や行動パターンを、高橋医師の一般論を補助線として解釈しなおす可能性を得たわけです。

 一般論はしばしば、根拠薄弱なことがあります。たとえばむかしの人はしばしば、「女は男より劣っている」という根拠のない一般論を疑わぬまま一生を終えました。
 一般論とはそんな、主語の大きな怪しげなものであることもあるわけです。
 それでも、なんらかの一般論なしには、世界を認識することはできないのです、人間は(←大きな主語の例)。
(つづく)
 

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