ちくま新書

本人らしい最期を迎えるために何をするべきか?

人生の最終段階においては、医療の選択をするのが難しい。最先端の治療が必ずしも患者本人の価値観に沿うとは限らないからだ。ゆえに、家族も悩み、揺れる。患者を大切に思うからこそ、ケアの現場は混乱を深めることになる──。
医療者、家族、患者の苦悩をすくいあげ、超高齢化社会の医療・ケアのあり方と考える『長寿社会の医療・ケア』(ちくま新書)のまえがきを公開いたします。

ある症例が教えてくれること
 医療は患者のためにある。医療は患者の幸せの実現を目標にしているはずである。これは医療全般において当然のことのように思われる。しかしながらその実現はなかなか容易ではない。特に人生の最終段階の医療においては顕著である。
 ある症例についてこの問題を具体的に考えてみたい。
 この症例との出会いは一通の手紙がきっかけだった。差出人は筆者の講演を聴いてくださったSさんという医師で、症例はS医師のお父上であるTさん(80歳代)。S医師は専門外だったため別の医師が主治医を務めていた。
 Tさんは重度の慢性肺疾患で肺炎を繰り返しておられた。徐々に嚥下機能も低下し、飲むことも食べることもできなくなり、人工的に水分と栄養を補給するために経鼻経管栄養法が導入された。経鼻経管栄養法は、鼻腔から喉、食道を経て胃まで細いチューブを通して水分と栄養を補給する方法である。
 Tさんは病状が落ち着いた頃に急性期病院から療養病床に転院となったが、また肺炎を起こした。すでにその時点で「本人の苦痛は家族として見るに余りあるものだった」と娘であるSさんは感じていた。
 ある日、Tさんは経鼻チューブを自己抜去した。経鼻チューブが苦痛と不快感の原因となっていたので、自分で抜いてしまったのだ。そうしたら医療者はTさんにミトンをはめた。ミトンは手袋のような身体拘束具である。ミトンをはめられると自由に手指を使うことができなくなるので、チューブを抜くこともできなくなる。ミトンを装着したのはチューブの自己抜去予防のためだった。医療者は、経鼻チューブは水分と栄養を補給するために必要と考え、患者が手指を自由に動かすことができなくなるようにしたのである。
 医療現場では、こうして拘束具を装着することを「抑制」と呼んでいる。Tさんの場合、抑制の目的はTさんの生命維持のために水分と栄養を安定的に補給することであった。
 しかしTさんはSさんにミトンを装着された両手を見せ、ほとんど出ない声をふり絞って「罰だ」と言った。Sさんは自らも医師という職にある者として、医療者がTさんを抑制する目的をわかってはいても、悲しくてならなかったという。
 Sさんは家族や親戚に相談し、経鼻経管栄養法もその他の治療もやめて自宅で看取ることを考えたが、なかなか決心がつかなかった。そんなとき、筆者の講演を聴いたという。
 SさんはTさんに本人らしい最期を迎えてもらおうと決心し、「家に帰ってみようか?」と話しかけたら、それまで苦痛にゆがんでいたTさんの顔がパーっと明るくなり、「うんうん」とうなずいた。
 経鼻チューブをとり、自宅に戻ったTさんの表情は穏やかになり、好きなお酒をなめさせてもらったり、家族の会話を聞きながらうとうとしたりして、自宅に戻ってから約1週間後に静かに息を引き取ったそうである。
 この症例について、読者のなかにはこれは経鼻経管栄養法が苦痛をもたらすために起こった問題であり、胃ろう(腹部を5㎜くらい切開して作る小さな穴)にすれば問題はなかったと思う人もいるだろう。確かに、胃ろう栄養法を用いれば、Tさんの苦痛と不快感は経鼻チューブの場合に比べてはるかに小さいものだったはずである。
 では、胃ろう栄養法にすればTさんは幸せだったのだろうか? その場合、胃ろう栄養法の目的は何なのだろうか?
 経鼻経管栄養法も胃ろう栄養法も人工的水分・栄養補給法(AHN :artificial hydration and nutrition)である。自分の口から食べることができないので、人工的に水分と栄養を補給しようとするのである。
 Tさんの症例でも日本社会のなかで広くみられる類似の症例でも、このような場合にまず問うべきは、患者の生活と人生にとって何が最善かという観点で人工的水分・栄養補給法を行うべきか否かを考えることである。
 患者を中心に患者家族や医療・ケアスタッフが、患者の価値や人生観・死生観をあわせて考え、人工的水分・栄養補給法を行うほうが患者の生活の質(QOL :quality of life)や人生のためによいと判断したら、複数ある方法のなかから適切な方法を選択する。つまり、人工的水分・栄養補給法を行って生き続けることを選ぶかどうかをまず考え、生き続けることを選んだら、その具体的な方法として胃ろうにするか経鼻チューブにするか他の方法にするかを考えて選ぶのである。
 Tさんに経鼻経管栄養法が導入されたとき、Tさんの生命と人生はどのような状態であったか。すでに人生の最終段階にあったのではないだろうか。その段階で医療者がすべきは、最期のときまでの大切な時間にどのようなケアを行ってTさんの人生の集大成を支援するかを考えることだったのではないだろうか。
 人工的水分・栄養補給法は行うことも行わないことも選択肢である。Tさんを人として尊重する最善の選択肢は、人工的水分・栄養補給法を行うことだったのだろうか。少なくとも、本人が人生の最終段階に「罰だ」と表現するような状態を医療によって作りだしてはならないのではないだろうか。
 人工的水分・栄養補給法を導入すれば生存期間を延長できる可能性があると思うとき、それを行わないほうが本人の人生のためにより良いという判断は、一意専心に救命・延命努力を尽くしてきた医師には受け入れがたいかもしれない。他の医療・ケア従事者や家族らも、生存期間が延長可能なときにそれをせずに看取ることは人として許されないのではないかと思うだろう。
 しかし、そもそも医療は本人の幸せの実現を目標にしているのである。生存期間の延長が患者の幸せに貢献しないなら、その延長に意味はないのではないだろうか。少なくとも、医療の名のもとに患者を虐待することは許されない。
 Tさんの症例のように、患者家族が医師の場合でも悩みは深いのである。これが一般の患者家族であったらどれほど苦悶するか、医師を含め医療者は認識する必要があるだろう。
 本人にとって何が最善なのか。それを探るためには、本人の意思を中心として、家族や担当の多職種も一緒に考えることが大切である。
 日本の医療現場では主治医の権限が依然として絶大である場合が多いが、主治医が担当医として責任ある医療を行うためにも、本人を中心に家族や医療・ケアチームとよく相談し、本人の最善をよりよく探り、治療方針を決定することが大切である。
 本人に最期までよりよく生きてもらうために、人生の最終段階の生き方と生き終わり方を視野に入れて、本人と家族を支える文化を創成することが日本社会に必要とされている。これは世界に冠たる長命社会を長寿社会とするために求められていることのひとつである。
 現在、日本は世界でトップレベルの長生きできる国であるが、生物学的に長生きすることと、幸せに長生きすることは同じではない。長命が長寿を意味するために医療とケアはどのようにあるべきか、本書で考えたい。

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