「この人、予告なく連載を落としてくるな」「『両手ぶらり』(前情報なし)という企画趣旨をすでに捨ててるな」でおなじみの金田です。前回に引き続き、両手ぶらりをかなぐり捨て、フェミニズム界隈ですでに話題になっていて、ホメられている小説に手をつけた。「題材、見つからねえ」「できるだけホメたい」という気持ちから出た行動なので、許してほしい。
そういうわけで今回取り上げる作品はレティシア・コロンバニ『三つ編み』(齋藤可津子訳、早川書房)だ。前回、クリスティーナ・ダルチャー『声の物語』(市田泉訳、早川書房)を酷評するという正直な行動を取ってしまったので、同じ早川書房の作品を褒める機会が早々に来て、本当に良かったと思う。
『三つ編み』はすでに各種の文学賞を受賞しており、日本でも目利き書店員が個人で創設した「新井賞」に選ばれた。韓国では同時期に『82年生まれ、キム・ジヨン』が出版されて大ヒットを記録したが、この『三つ編み』は言うなればフランスの『キム・ジヨン』だ。もう私が褒めなくても十分なのでは感があるが、おそらく『キム・ジヨン』ほどは日本で知られていないと思うので、改めて推薦したい。
フランスの『キム・ジヨン』とは言ったが、最初に出版されたのがフランスというだけで、作中にフランスは出てこない。インド、イタリア、カナダが舞台であり、全く異なる境遇にある女性3人の物語が交互に語られる。
インドのスミタは「不可触民(ダリット)」の生まれで、人糞を素手でくみとるという非人間的な労働をさせられている。娘にはこの運命を受け継がせないという決意から、スミタはある行動に出る。イタリアのジュリアは家族経営の毛髪加工会社で働く十代だが、父親が倒れ、会社経営の危機に直面する。カナダのサラは3人の子どもを1人で育てながら激務をこなす野心的な弁護士だが、ある日、病魔に襲われる……。「女性」という属性で一つに括るのが躊躇われるほど遠い場所、異なる境遇にある3人だが、それぞれが、生まれによる差別、予期せぬ経営難、病を口実にした差別という、自分のせいではなく外からやってきた困難にさらされる。3人の勇気ある女性の物語は、数奇なめぐりあわせで、ひとつの未来に向かって編み込まれていく。フェミニズムに全く興味がない人が読んでも、おそらくエンターテインメントとして十分に楽しめる傑作だ。
さて斎藤美奈子氏は書評で、この3人の直面するのが「女であるがゆえの困難」だと書いている。しかし訳者の齋藤可津子氏があとがきで「身分制度や伝統的価値観、効率優先主義といった社会的重圧、そこでは男性も(ナガラジャンやカマルのように)差別や搾取の対象になる」(243頁)と書いているように、作中に出てくるメインの困難は「女であるがゆえの困難」ではない。不可触民に対する差別は男女ともに激烈なものだし、経営難も、病を口実とした差別も、女性であることに固有の問題ではない。
よって『三つ編み』は、程度の差はあれ誰にでも(男性にも)起こりうるような困難を、三者三様の、しかしいずれも勇気と行動力のある主人公がどうやって乗り越えようとしたかについての物語だ。フェミニズムに興味がない読者でも(やや社会派の)エンターテインメントとして楽しめるだろうと私が思ったのは、このことが理由だ。とはいえ一昔前ならこのような物語は、男性主人公たちによって独占されたであろう。実際、私には男性版の『三つ編み』のプロットが容易に思いつく。だからこそ2017年の作品である『三つ編み』が女性主人公たちの物語として描かれたことは、フェミニズム的に大いに意味があるだろう。
では、世間ではフェミニズム小説と評価されているが、『三つ編み』のフェミニズム要素は、女性主人公という部分だけなのか? いや、もちろんそれだけではない。
やや話が逸れるが、私はこのところ『82年生まれ、キム・ジヨン』をはじめ、いくつかのフェミニズム小説を読んで、「何をもってフェミニズム作品(小説、マンガ、映画など)と言えるのか」を考えていた。これにはもちろん様々な回答がありうる。たとえばテクストそのものよりも、読者論的に「女性読者がそれを鑑賞してエンパワメントされた」という効果を重視するのも、一つの納得のいく回答だと思う。
しかしここではテクストについて考えてみたいのだが、私がフェミニズム作品にとって最低限必要だと思うのは、「ここに女性差別があるという描写」だ。差別する社会は、様々な人間の口を使って(もちろん被差別者たちの口も使って)、それが差別ではなく「合理的な区別」であるという粉飾をする。だから何よりもまず「差別がある」「それは差別だ」ということが説得的に描かれなければいけない。そのような描写はある読者にとっては被害妄想に見えるかもしれない。しかしある読者にとっては共感できる描写であり、読者たち自身の人生経験のリプレイ、再発見でもある。『キム・ジヨン』はそのようにして読まれ、数百万人の読者たちの人生経験を重ねて読み拡げられていると思う。
さて『三つ編み』でも、(メインの困難は女性特有のものではないが)それぞれの社会で女性が差別されていることについて描写がある。さらにそれに対する抵抗や闘争心が、女性主人公たちの視点からしっかり描かれている。
スミタに関しては、娘の将来のために思いきった賭けに出ようとしたとき、もし失敗したら女性は男性よりもひどい目に遭わされる(強姦される)ことについて恐れている。そもそもインドのある地域では、女性は男性の所有物なので、法を犯した男性の姉妹や娘、妻に対する強姦が正義の制裁として行われており、法的救済もないのだ。ジュリアは3人の中では比較的、女性差別の被害を受けていないと言えそうだ。それでも周囲の男性たちのマッチョさにはうんざりしており、男女は同等だという宗教的教義を大事にしているカマルを恋人に選ぶ。サラはいわゆるキャリアウーマンでシングルマザーだが、仕事のために家事育児を(専業主婦のようには)担えないことに罪悪感を感じている。カナダはインドやイタリアと比べてはるかに男女平等の進んだ国だが、それでも「ガラスの天井」(女性の出世を阻む、目に見えない天井)がある。サラは会社に対して3人の子どもがいることすらも隠して激務をこなし、一時はガラスの天井を突破するのだ。
彼女らの一番近くにいる男性たち(夫、父親、恋人、ハウスキーパー)は、彼女らの心強い(時に頼りない)味方だが、そのことで帳消しにはならないほど、この社会は「明らかに女が好きではない」(156頁)。それは3人にとって毎日の現実だ。せめて娘にだけは糞尿掃除をさせたくないと奔走したり、差別をしない男性を選んだり、超人的な二重労働で男以上の能力を証明するという、個人でできる範囲の戦いは、3人はすでに行っている。作中でそのように名指しはされないけれども、3人はそれぞれのやり方で、うまい方法ではないかもしれないけれども、女性差別と闘っているフェミニストだ。このような意味で、『三つ編み』は優れてフェミニズム小説なのだ。
さらに『三つ編み』にはもう一つ、大事なフェミニズム要素がある。全体を貫くテーマとして、様々な立場にある多様な女性の連帯が描かれていることだ。
ネタバレにならない例を挙げるが、たとえばスミタは娘との旅の途中で、ラクシュママという女性に食べものを分けてもらう。インドのある地域では、夫に先立たれた女性は忌み嫌われ、殺されたり、追放されたりする。夫を失ったラクシュママは嫁ぎ先から追い出され、幼い息子たちとともに慈善道場のある町に向かうところだった。そのような苛酷な身の上ですら、いや苛酷だからこそなのか、ラクシュママは飢え渇いたスミタたちに食べものを分け与える。スミタは深く感謝し、そのとき自分や娘が苦境を抜けだす事よりも、ラクシュママの無事を祈る。
またジュリアと工場の女性労働者たちには仕事上の利害を越えた絆がある。父親が倒れ、経営者としての自覚を持ち始めたジュリアは、彼女らのためにも簡単に会社を倒産させることはできないと判断するのだ。
以上のように、『三つ編み』は社会派のエンタメ小説としても、フェミニズム小説としても優れた作品で、100点満点でいえば100点だ。ぜひいますぐ読んでほしい。
と言って終わりたいところではあるのだが、実は、私にはどうしてもひっかかる論点がある。これは本作の最大の着想、ミステリで言えばトリック部分に密接に関係しているので、この先ネタバレをする。『三つ編み』を読み終わってから、この先に進んでほしい。