「この連載、もう更新しないのかな」と、編集と読者があきらめたころに更新される、フェミニスト両手ぶらり旅です。刃牙さん、いつもありがとうございます(唐突な感謝)。
そういうわけで、いま、映画『ミッドサマー』(アリ・アスター監督)が熱い。
いや、日本での公開からすでに一か月ほど経っているし、もう熱くないような気もする。しかしまだまだ「私の考えた『ミッドサマー』の真相」といったツイートが流れてくるし、劇場公開もされている。だからこの連載でとりあげても許されると思った。
そもそもこの作品については、英語圏で公開された当時から、私の周囲の好事家のあいだで話題になっていた。ジャンル的には「奇祭まぎれこみ系ホラー」。しかもそれ系の作品にありがちなジメジメした陰鬱なルックスではなく、北欧! 青空! 色とりどりの花々! という画面が斬新だ。私はビビリなのでホラーはあまり得意でないのだが、「旧来の因習の残る村で連続殺人が起こる」系のミステリが大好物なので、「気をつけろ! アリ・アスターだぞ!」などと注意喚起されながらも、縁日に参加する子どものような気持ちで、ウキウキと観に行った。なお、アスター監督の前作『ヘレディタリー/継承』については未見である。
「奇祭まぎれこみ系ホラー」ということもあり、この作品には思わせぶりな図像・文字が多々映りこんでくる。そのため感想の一類型として、「奇祭の神話的な背景や元ネタ」の考察というスタイルが、わりと見受けられると思う。しかし私はそういう「謎解き」系の考察はいっさい行わないので、そこは期待しないでほしい。
以下、盛大にネタバレしつつ感想を書く。
この映画について、私は「奇祭まぎれこみ系ホラー」を期待して観に行き、それなりに大いに楽しんだ。だからホラーとして鑑賞することが正解であることは間違いない。しかしアスター監督が随所で語っているように、この映画はさまざまな楽しみ方ができるように作られているし、中でもとりわけ「家族など、持続的な関係にまつわるドラマ」が色濃く展開されている。具体的には、ヒロイン(ダニー)の視点から、「うまくいっていない恋人(クリスチャン)との関係について、続けるか別れるか決断する過程」を描く映画だ、と私は思った。女性の視点から、「男性に合わせること」でなく、「自分にとってよりよい関係性を選ぶこと」を描いているという意味で、フェミニズム的な主題であるとも感じた。
ダニーは映画の冒頭ですでに、のっぴきならない状況に陥っている。精神病を患っている妹から、不穏なメールが入った後、連絡が途絶える。ダニー自身も抗不安薬を使用せずにはいられない状態であり、恋人であるクリスチャンに助けを求めるも、十分なサポートは得られない。クリスチャンはダニーの手を放してしまうことはないが、電話をたびたび無視しており、男友達がダニーを邪魔者扱いするのも否定しない。
この時点でもう別れたほうがいいと誰もが思うようなカップルなのだが、ダニーの精神状態が悪すぎるためか、ずるずると続いている。ダニーにとって最悪の事件が起きてしまった時が、もしかすると、別れるか、再スタートに踏み出すかの最後の機会だったかもしれないが、二人はそのどちらもできず、ぎくしゃくした関係を続ける。
そんなダニーが、クリスチャンとのコミュニケーションの行き違いをきっかけに、北欧の小さな村「ヘルシングランド」への調査旅行に同行することになる。映画の情景は冬から春へ、そして夏へと変わって行く。ダニーは奇祭を身をもって体験し、ショッキングな出来事に心をかき乱されつつも、ダンス対決でノリノリになってメイクイーンの座を勝ちとり、最後にはクリスチャンとの別れを決断する。クリスチャンを生きながら燃やす炎を前にして、ダニーは全身をよじって嘆き悲しむが、最後には満面の笑みになる。
二人の関係がこのような結末を迎えたことについて、ヘルシングランドの人々の、共感や同調を主軸にしたコミュニケーションに着目する感想は、ツイッター等でしばしば見ることができる。
想像を絶する悲しみに打ちひしがれているダニーに対して、クリスチャンは恋人でありながらも、どこか他人事のような、厄介な腫れ物のような扱いをしているし、そもそもダニーの誕生日すら忘れてしまっている。それに対してヘルシングランド出身のペレは、家族を失ったダニーに対し「自分も両親を失くしている」と打ち明け、たびたび親身な言葉をかけてくる。ヘルシングランドの人々は、奇祭の全体を通じて、その場の中心になっている人物に対して全員が喫食などの動きを合わせたり、大きな感情表出があるとそれと同じ身振りをしたりする。村人たちが大げさに同調してみせる感情は、喜びよりも、どちらかというと悲しみ、嘆き、痛みといったマイナスの感情が多いようだ。その儀礼的な共感の身振りは、祝祭の仕上げであるキャンプファイアーで、生きながら焼かれる人々の悲鳴に同調して、クライマックスに達するのだ。
ここで注意しておきたいのは、当のダニーが、このような共感の言葉や同調の身振りについてどう思っていたかということは、映画からは明確な判断ができない(だろう)ということだ。ペレが二度にわたって「僕も家族を失くしている」と語りかけたとき、ダニーはフラッシュバックを起こしてしまい、会話を続けることができなかった。メイクイーンになってからの、周囲の女性たちのあからさまな同調についても、ダニーがどう思っていたのかはわからない。だからここで性急に、「悲しんでいる人に必要なのは一緒に悲しむことだ」とか、「(ダニーが女性なので)女性は共感を求める傾向がある」とか、そういったことをこの作品が描いていると主張することはできないと思う。「恋人によそよそしい態度を取られるよりは、知らん人から儀礼的に共感されたほうがマシ」とか、「知らん人が死ぬよりは、不貞を働いた恋人が死んだほうがマシ」といった、低いレベルでの比較はあるかもしれないにせよ。
ちなみに個人的には、共感が過度に求められる人間関係は、仮にそれが常に「私を中心人物とした、私への共感」であったとしても、居心地が良いものとは限らないと思う。また特にダニーがクリスチャンのセックスを見てしまった時のパニック発作に対して、村の女性たちが同調してみせたことについて、「お前ら村人が全員で仕組んで、クリスチャンに無理やりセックスさせたくせに、盗人猛々しいな」と思った。
映画で提示されたのはともかくも、一連のめまぐるしい出来事を経て、ダニーがクリスチャンとの別れを選んだことと、クリスチャンが焼け死ぬのを見て晴れ晴れと微笑んだことだ。ダニーの笑顔をどのように解釈し、どう感じるかは、それこそ観客によって千差万別だろう。この部分の感想だけで一種の性格判断をされてしまいそうな怖さがあるが、私はといえば、極限状態に追い込まれることで、ダニーがクリスチャンとの関係をようやく終わらせることができ、最後に笑顔になったことについて、不思議な爽快感があった。
これまで丹念に描かれてきたダニーとクリスチャンの関係が、あまりにも居心地が悪いものであったせいで、村のヤダみのほうがまだマシに見えてしまうというだまし絵的な効果を、私が受けている可能性は否定できない。繰り返しになるが、この村の風習である共感の身振りは、ダニーにとって「よいもの」であったかどうか判断がつかないので、祝祭の後、ダニーが家族の死を乗り越えて、共同体に溶け込めたかどうかも、わからない。ホラーというエンタメジャンルに見せかけて、わかりやすいカタルシスを拒むこの作劇は、不思議と、私にとってそれほど嫌なものではなかった。