私は日ごろ、「ボーイズラブとやおい同人誌ばかり読んでいる人間」と思われている。いや実際そうなのだが、たまに推理小説も読む。男どうしのバディが主人公であることが多いからでもあるが、単純に、凄惨な連続殺人の描写と、奇想天外かつ精密な物理トリックを堪能するのが好きなのだ。
こういう自分の性質に気づいたのはわりと最近で、だから系統的に読んできてはいない。知人に尋ねたり、ウェブ情報を小耳に挟んだりして、「凄惨な連続殺人」「すごいトリック」の二要素があると聞くと、男どうしのBLバディの描写がない本でも、期待に胸をふくらませて手に取ってきた。
そんな私が、トリックについて心の底から感嘆したのは、島田荘司『占星術殺人事件』と、綾辻行人『時計館の殺人』だ。やや核心に触れることを書いてしまうが、首なし死体はAさんでなくBさんでしたとか、時計を見まちがっていましたとか、そういうありきたりのものではない。「首なし死体である」とか「いまは何時である」といった、推理の前提条件を揺るがしてくるようなトリックだ(為念、叙述トリックではない)。
すごいトリックというのは、それまでの自分の凝り固まった考えをもみほぐし、精神的整体によってガツンと位置を変えるようなものだ。良質の社会学研究や歴史研究にも、私は常々、そのような「ガツン」を感じるのだが、私が推理小説に求めているのは、そのような快楽である。
とはいえ、どんな「ガツン」でもいいわけではない。私が推理小説の物理トリックに求める基準は明確で、(1)物理的に可能であること。(2)関係者の行動が合理的でない場合、納得のいく説明があること。加えて言えば、(3)警察による科学調査が行われていない場合、なぜ行われなかったのかの理由が説得的であること。この三点が満たされていなければいけない。
この三点を満たしていない推理小説のトリックなどあるのか、と思う人がいるかもしれないが、有名作品でも散見される。私の中で有名なダメトリックに、「背中から、自らナイフで心臓を一突きで貫き、他殺に見せかける」というものがある。誰のどの作品で出てくるのかはあえて言わないが、こういうトリックが成り立つと言い張るのは、それが推理小説ではなくて、山田風太郎書くところの忍者小説でもない限り、許されないと思う。
『占星術殺人事件』と『時計館の殺人』はその点、「犯人が過労で死ぬのでは?」という心配は残るものの、忍者が出てこなくても大丈夫なトリックだ。先に挙げたトリックの三要件も満たしており、読者をあっと驚かせる力は、いまだ古びていないと思う。ちなみに、綾辻行人の館シリーズは、時計館よりも、第一作『十角館の殺人』がベストという声も多い。こちらもすごいトリックなので、未読の方は十角館から読んで欲しい。
読んだことのある推理小説の中では、『占星術殺人事件』が私の中で、いまのところベスト・トリックだ。そこで私は島田荘司の御手洗シリーズを愛読するようになった。名探偵・御手洗潔とその助手・石岡和己が活躍する同シリーズは、さまざまな時代や地域の歴史的事件をモチーフとする作品が多く、現場を見てきたかのような、克明かつ幻想的な描写が圧巻だ。さらにその歴史的事件になぞらえて現代によみがえる、陰惨な殺人事件! 果たして犯人は誰なのか。それとも科学では説明のつかない怨霊のしわざなのか。寝る間も惜しんで読み進めたものだ。
ここからがある意味、このコラムの本論である。
島田荘司の御手洗シリーズは、小説として面白いと思う。しかしなにかおかしい。
なにか、と言い淀んでしまったが、はっきりいえば、トリックがおかしいのだ。島田荘司自身が意図的に、あまりトリックの物理性や合理性にこだわらず、いかに魅力的な謎を提示するかに注力する作家らしいので、言っても仕方がない部分ではある。しかしそれを差し引いても、「逆に、そのトリックは、常識が邪魔をして思いつかないし、思いついても書かないのではないか」というダイナミックなトリックの連続なのだ。
先に「背中から心臓を一突きして他殺に見せかける」というダメトリックを例に挙げた。しかし御手洗シリーズと比べると、このくらいはもはや児戯である。例えば、「目がよく見えない人が、事前の入念な練習を行った上ではあるが、一センチの誤差も許されないピンポイントの狙撃を二回連続で行う」(実際はもっと非現実的な条件が付加されるがこの時点ですでに不可能だと思われる)という達人技を見せる。私たちは推理小説を読んでいたはずだが、実はこの作品のジャンルはゴルゴ13、あるいはシティーハンターだったというトリックだ。この他にも、さも可能なように書かれているが、犯行に使われた技術が、オーバーテクノロジーすぎて何を言っているのかわからない作品もある。
また先に挙げたトリックの三要件として、特に(2)を付け加えなければいけないと私が思ったのは、完全に御手洗シリーズのせいである。この世界では登場人物が非合理な行動をとり、その結果、死に至るのが常態である。例えば、「ある大作映画を撮影するプロジェクトの進行中、すでに数名の人間が変死をとげているのに、ディレクター二名が、不案内な外国の地で、『自由にお使いください』という紙が貼ってある怪しい建物に、すすんで入っていく」という現象が起きる。もちろんその二名は死ぬ。このくだりは童話的な味わいがあり、メインの物理トリック以上に、私を驚かせてくれた。
『占星術殺人事件』以外の御手洗シリーズ、特にそのトリックについて、批判的な書きぶりになってしまった。しかし(主役二人のBLを思わせる関係をさしひいても)なぜか魅力があることも事実だ。未読の方には、ぜひとも『占星術殺人事件』を読んでほしいし、できればそれ以外の御手洗シリーズにも触れて、得体のしれない発想力に驚き、「ガツン」と衝撃を受けてほしいものだ。