平成10年、1998年10月31日の出来事だ。
有楽町の日劇東宝では、なんと徹夜組を含む3200人の大行列ができていた。広瀬すずや齋藤飛鳥が生まれた1998年(平成10年)は、今より消防法が緩く、映画館が全席指定制になる前。この日から公開開始の『踊る大捜査線 T H E MOVIE』を観るために日劇史上№1の観客が、建物の周囲を囲むように並んだのである。金券ショップでチケットが100円で売られていた『北京原人 Who are you?』とはレベルが違う。劇場側も途中から小雨がパラついたので9階のロビーを開放したという。
前年12月20日から公開の映画『タイタニック』は計50週の大ロングランで日本での最終配収は160億円にも上った。50週って、ほぼ1年間に渡り同じ映画を上映し続けたことになる。
ちなみに98年のCD総売り上げは5878億7800万円と音楽市場が巨大化し、もちろん雑誌を含む出版業界もまだ元気だった。レコードがCDに変わったくらいで、昭和の延長線上にある日常生活だ。
スマホはもちろん存在せず、ネットの普及率も14%弱(現代は80%超え)と今より情報伝達スピードが遅くのんびりしていた平成前半戦。小室ファミリー、プレステ、TBS昼番組『マダムんむん』じゃなくて失楽園……、90 年代末には一つの大ヒット商品を世の中みんなで共有する昭和ぽい空気感がまだギリギリ残っていた気がする。
そんな中、野球界の話題の中心は夏の甲子園決勝戦でノーヒットノーラン達成後、98年秋のドラフト会議で西武入りした松坂大輔だった。12月28日の入団発表会見には、55社268人の報道陣が集結。春季キャンプでは立ち投げをしただけで東尾修監督が「宝物を見つけた」なんて超絶賛。世紀末、日本国民はみんなで背番号18をワリカンしていた。
間違いなく、松坂は早熟の天才だった。なにせ1年目から高卒ルーキーでは54年の宅和本司(南海ホークス)以来となる最多勝を獲得、史上初のベストナインとゴールデングラブ賞をダブル受賞している。99年4月7日の日本ハム戦(東京ドーム)、155㎞/hの衝撃デビューはこれまで平成記録映像として幾度となく繰り返し観てきた。
なぜ彼は世間一般に広く届く存在になり得たのか? ルーキー松坂には圧倒的な実力に加えてファンやマスコミを喜ばせるコメント力があった。甲子園の準決勝では右腕に巻かれたテーピングを自ら剝ぎ取りマウンドへ。のちにとんねるずの石橋貴明から「あれはカメラ意識したの?」と聞かれ、「その方が盛り上がると思って」と平然と答える怪物。ロッテのエース黒木知宏との白熱の投げ合いに敗れ「必ずリベンジします」と口にした6日後の再戦で、本当に3安打10奪三振のプロ初完封勝利。オリックスの天才イチローを3打席連続三振に斬って取り「自信から確信に変わりました」なんてお立ち台で笑ってみせるハートの強さも併せ持つ。
99年オフには、“リベンジ”が新語・流行語大賞を受賞したが、言葉の力というのはそのまま選手が持つストーリー性へと直結する。平成の天才イチローとのアングル、昭和のKKコンビへの憧れ、それらを笑顔で口にする松坂はどの角度からも記事になりやすい選手だった。これが例えば現代のTwitterとかインスタで「次はリベンジします」なんて発信したら軽く炎上するだろう。そういう意味でもそのキャラクターは非常に90年代的だと言える。
西武時代は肩と肘をどれだけ消耗しようが、とにかくあらゆる役割を引き受け投げまくり、国際オリンピック委員会の方針でプロ選手の出場解禁となった2000年のシドニー五輪でも、高卒2年目の背番号18が日本代表のエースとして選出。いわば19歳で日本プロ野球を背負ったわけだ。
ついでに19歳の夏に6つ年上の人気女子アナとフライデーされたり、球団広報に駐車違反の身代わり出頭をしてもらったことがバレるような脇の甘さもあった。そんな清廉潔白ではない”普通の兄ちゃん”が、グラウンドに立つと巨大な敵をねじ伏せる。
プロ入り後3年連続で最多勝を獲得、06年オフのポスティングでは60億円の値が付きレッドソックスで世界一に輝き、WBCでは二大会連続のMVPを獲得して日本代表の二連覇に貢献。この頃、就職して会社のおじさんたちに「野球で言ったら松坂世代です」なんて自己紹介をした人も多いかもしれない。2019年に39歳を迎える多くの松坂世代の選手たちがすでに現役を引退したように、我々も歳を取った。会社じゃ上司と部下に挟まれて、人によっては転職や結婚や子どもができたり、あらゆることが変わった。でも、今も変わらず、松坂大輔はマウンドに上がり続けている。その中日ドラゴンズのユニフォーム姿を深夜のスポーツニュースで見て、カムバック賞? あぁ俺もまだ終われねえよな……なんてテレビの前で勇気づけられるわけだ。
迎えたプロ21年目の春季キャンプ、ファンサービスのハイタッチの際に後方に引っ張られるような形になり、古傷の右肩に違和感が生じてしまう。そう言えば、ルーキーイヤーの99年春季キャンプでは、先輩投手の谷中真二が松坂のユニフォーム姿で現れ人を引き寄せる”影武者作戦”が話題になったことがある。その裏で「TANINAKA」の文字が入ったウィンドブレーカーを着たサングラス姿の18歳松坂は無事移動に成功。あれから20年経過という事実にビビる。ついでにいまだにその松坂がハイタッチ事件で野球のトップニュースを飾っている現状にもビビる。今から20年後は、2039年だ。死ぬほど未来という感じがする。根尾昂や吉田輝星が20年後も今と同じように騒がれているだろうか? そう考えるとこの男の凄さを嫌でも実感する。
19年春には、サントリー伊右衛門のテレビCMで本木雅弘や宮沢りえと共演。「オマエハ、オレラセダイノホコリダカラヨ。サケヨ、ダイスケ」という村田さんの棒読みには、往年のりえちゃんの写真集サンタフェ新聞全面広告クラスで度肝を抜かれたが、いまだにNPBで最も有名な選手は中日の背番号18だと思う。
開幕後は右肩リハビリ中のゴルフが写真週刊誌に激写され球団からペナルティ。7月16日阪神戦の令和初登板は5回2失点にまとめたが、続くDeNA戦で1/3回を8失点のメッタ打ちを食らいKO。その後は右肘炎症が発覚し再びリハビリ生活へ。9月1日には球団代表と会談し、本人は現役続行の意思を示したものの来季契約はまだ白紙だ。今季0勝の男は9月13日に39歳になる。憧れのイチローも、プロ同期の上原浩治も引退しちまった。時計は容赦なく進み続けている。
だが、どれだけ衰えようがこれだけは断言できる。彼は時代を代表する投手ではなく、時代そのものだった。平成の妖怪……じゃなくて、"平成の怪物"松坂大輔が現役を退いたときが、本当の意味での平成プロ野球死亡遊戯となるだろう。
俺たちの平成終わっちゃったのかなあ……。
バカヤロー、平成プロ野球はまだ終わっちゃいねえよ。