香港では、去年6月以来の大規模デモ活動が続いている。新型コロナウイルスの感染が拡大し、最近は少し落ち着いた雰囲気があったが、5月28日に香港版国家安全法が中国の第13期全国人民代表大会で可決された。それは扇動、国家分裂、中央政府の転覆を禁じるのを目的とした提案であり、実際に導入されれば、中英共同声明と香港基本法に抵触すると批判されている。ところで、その直前に香港社会と中国政府との緊張関係をあらわす一つの事件があり、注目を集めた。実は、その事件には日本が関わっているのである。
試験問題を巡る論争と歴史科目の背景
その事件は、5月14日に香港の大学入試で起こった。「歴史」(選択科目)で出題された「20世紀前半の中国と日本」に関する問題に対し、香港教育局トップが「受験生を誤導」「侵華戦争で苦難をなめた中国国民の感情を著しく害する」と非難し、その設問を取り消し、無効にするように求めた。そして中国共産党機関紙が、「日本の中国に対する侵略の歴史を美化」と批判を浴びせた。それに対し、民主派や高校教師が、学生の「自由な思考を抑圧」し、「文化大革命を想起させる」と反論したのだ。
この問題については、日本でも『朝日新聞』や『産経新聞』で報道された。しかし、それらの記事は論争になった試験問題の設問の全文を紹介しておらず、日本の読者に誤解を与えかねないものであった。本稿では、そうした誤解がないように、この問題の全体像を説明したい。
まず、その設問を見てみよう。
(c)「1900-45年の間、日本は中国に損害よりも利益を多くもたらした。」あなたはこの説に賛成しますか? 資料C及びDを参考にし、あなたの知る範囲で答えてください。
この設問を見て、どうお思いになるだろうか? これから、この論争になった試験問題を分析して政府や機関紙の非難の妥当性を検討するわけだが、その前に香港の「歴史」という科目と試験について簡単に紹介しておこう。
「歴史」という選択科目は、20世紀の香港、中国、日本、東南アジアの近代化と変遷、及びヨーロッパを中心とする20世紀の世界的衝突と協力をテーマとしており、大学入試では「巻一」と「巻二」の二つのパートに分けられている。「巻一」は「歴史資料問題」であり、受験生は歴史的文書、写真、風刺漫画などの資料を読んで設問に答える。「巻一」には計四問があり、各問に資料が提供され、設問(a)(b)(c)が設けられている。「巻二」では、受験生は二つの設問に対して小論文を書く。今回問題になったのは、このうち「巻一」であった。
試験問題の構成
今回、糾弾されたのは「巻一」の第二問で、1905年に刊行された法政大学の総長・梅謙次郎の書物(資料C)、及び1912年に中国革命家の黄興が政治家の井上馨に宛てた手紙と、中華民国臨時政府と三井財閥との契約(資料D)が取り上げられた。前者は中国の近代化と日本の貢献についての資料と目され、後者は中国の革命を日本が支援したことを証明する資料である。
この資料CとDをめぐって三つの設問があり、そのなかで最も注目されたのが先ほど紹介した設問(c)であった。
この設問の形式は、長年出題されてきた典型的なものの一つであった。この形式の設問に対する解答方法は、①その説に対して、あなたが賛成か、反対かを表明すること、②特定の時期(今回の設問(c)の場合は「1900-45年の間」になる)を解答範囲とすること、③どちらの立場にせよ、「損害」にも「利益」にも言及すること、④資料を参考にすること、⑤資料以外の、あなたの知る限りの知識で答えることである。
試験問題の暗黙知と批判者の無知
以上に説明してきたことについて私が指摘したいのは、次のことだ。
まず、詳しく資料を読んでみると、資料Cからは、日本が中国における「法政学科」の発展と人材育成に支援したこと、資料Dからは、井上馨と三井財閥の支援で中国革命が成功したことが読みとれる。一方、日本の介入で中国の内戦が勃発し、中国の鉄鉱山が抵当に取られたこと、しかも三井の貸金に対し一年間7厘という高い利子を負担することも読みとれる。故に、資料のみを参考にしたとしても、この設問は「日本は中国に損害よりも利益を多くもたらした」と受験生を誤導させるものではない。
さらに、前述の通り、「1900-45年の間」(特定の時期を解答範囲とする)、及び「あなたの知る範囲で」、つまり資料以外の知識が問われるところが、設問(c)の肝心なところである。この二箇所があるからこそ、政府や共産党機関紙の批判は不合理だとはっきりと言える。
「あなたの知る範囲で」、つまり資料以外の知識となるのは、基本的に、「歴史」という選択科目で生徒たちが勉強したことである。そして、この設問に答える補助となってくれる高校で勉強した「1900-45年の間」の日中関係についての知識は、主に1915年の対華二十一ヶ条要求(中国の山東省や満蒙における鉄道敷設権、土地の貸借・所有権、鉱山の採掘権などを日本に認める)、1930年代の日本の中国に対する軍事行動、満洲国の成立、日中戦争(南京大虐殺や「慰安婦」の話を含める)についてのものである。そして日本の政治家や資本家がどのように清末時期の革命活動や中国の近代化を支えたかは、教科書には詳しく記載されておらず、教科書以外の書籍を読んで、前もって具体例を暗記しておかないと、試験中には答えられないはずだ。つまり、「日本は中国に損害よりも利益を多くもたらした」に「賛成」だと答えて資料以外の論拠を挙げるのは、一般受験生にとって極めて難しいのである。
たとえ「賛成」しても、「1900-45年の間」「あなたの知る範囲で」「損害」という設定とキーワードがあるので、資料(1900年代と1910年代初頭)以外に、1915年の対華二十一ヶ条要求や30年代の満洲国の成立や1945年までの日本の侵略などの重大な歴史を取り上げないといけない。しかも、「巻一」の解答時間は2時間で、つまり第一問から第四問まで、それぞれ30分しか解答時間がない。30分の中で、配点が少ない設問(a)と(b)を10分くらいかけて答え、残る20分で配点が多い(c)を答える。その20分間で、20世紀前半の日本の中国に対する野心と侵略に言及して、それを否定して、さらに教科書にほぼ載っていない、日本の中国近代化に対する貢献の証拠を取り上げるのは、受験生には不可能ではないだろうか。試験戦略からいうと、「反対」の立場を取るのが「常識」である。
香港政府と共産党機関紙は明らかに香港の歴史試験問題そのものへの知識が欠如しており、非難は極めて理不尽である。残念ながら、5月22日にこの設問は、香港考試及評核局(試験機関)に取り消されて無効になった。6月3日に、ある受験生は、香港の高等法院(高等裁判所)に司法審査を申し立てた。
2019年以後:教育現場の「異分子」の排除?
2019年大規模デモを経て、さらに現在もつづく、政権への不満を表明しながら民主化を求める社会運動に対し、香港政府は、教育現場がデモの激化をもたらした原因のひとつだと指摘した。5月11日の『大公報』の取材に対して、香港特別行政区行政長官・林鄭月娥(キャリー・ラム)は、教育現場で「事実と合わなくて偏った理屈」が広められたと答えた。そして、教育課程の設計、試験問題、教師の自主性、及び生徒たちの学習は、政権の注目するところとなった。今回の事件は導入でしかない。もしこのまま続けば、今後の教育現場はより制限され、各科目の内容の多元性は失われるだろう。そして、学生の批判的思考力を養成する教育の代わりに、政権と同調する「愛国教育」がおそらく主旋律になるのであろう。