問いつめられたおじさんの答え

第12回 人はどうして死んじゃうの?

最終回です。究極の問いに、おじさんが答えます。

 とうとう来たね。これ以上の問いはないからね。他にあるとしたら、当然「人はなぜ生まれてきたの?」だけど、おじさんの持論としては、生き物には奇跡が2回起きるというのがある。生まれたときと死ぬときだね。
 どれだけ生きて数奇な人生を送ったとしても、このふたつ以上の奇跡は起きないと思う。生まれてきたのは奇跡としても、死ぬのも奇跡なのか納得いかない人もいるだろうけど、死ぬのも間違いなく奇跡です。だって、違う次元に行っちゃうんだから。もっと言うと、無が有になり、有だったものが無になる、これ以上の奇跡はないでしょ。
 哲学者のスピノザによれば、この世界自体が神なので、あらゆるものは神の一部であり、神の内にある。万物は神が変状したもので、生まれても死んでも神の外には行けない。となると、生まれるのも死ぬのも奇跡ではないかもしれないけど、それでもまったく違うものに「変状」してしまうわけだから奇跡に近いね。もちろん、この場合の神というのは、人の形をしてネグリジェみたいなものを着てたり、でっかい杖を持ってたりする神じゃないので、念のため。
 おじさんはスピノザを信じているかというと、この世で66年生きてきた感触からいうと、一番「ほんと」に近い感じがします。スピノザを読んだのは40代の頃だけど、最近また読みはじめてるんだね。それでスピノザを持ち出したのかもしれないけど、ほんとにさ、こんなこと誰も教えてくれないわけよ。
 小学校に入った頃かな、そのうち誰かが「この世界ってなんなのか」を教えてくれるんだろうと思ってたら、親も学校の先生も、誰も教えてくれない。ていうか、実は誰も知らない。誰も知らないくせに平気で戦争したり、子ども作ったり、酒飲んだりしてるなんて信じられなかった。そこでおじさんは1回オトナ不信になったんだと思うね。66歳のくせに今でもオトナを信用できないんけど。
 では自分はわかったのかというと、小学生の頃よりははるかに知識は増えたね。もちろん、まだ足りない知識のほうが圧倒的に多いわけだけど、よく言われるのは「我々の世代でこの世界の原理をすべて解明するのは不可能だ」という意見。それ言ったら、すべて解明する前に人類は滅亡するでしょう。その時々で理解しようとしてきたのが、宗教だったり、科学だったり、哲学だったりするんでね。今、自分の娘に「この世界ってなんなのか」と聞かれたら、自分が言える分のことは話してあげようと思ってるんだけど、聞いてこないね、ウチの娘は。
 それで「なぜ死んでしまうのか」ということだけど、まず、生きているのは体である。そして体は細胞でできている。細胞には寿命があるので、我々にも寿命がある。つまり、我々は細胞が生きている間、ブツブツ感想を言ったりしているだけの存在だと思うよ。まぁ、体は自分じゃないのかというと、繋がってはいるんだけど、難しいところだね。脳だって臓器だし細胞なわけだから、意識こそが自分ならば、それこそ我々はただのブツブツ野郎でしかない。
 不老不死の話になると、いつも出てくるのが、例の培養液の中で脳だけで生きているヤツ。だけど、そんなの脳が入ったでっかいビーカーみたいなのを落としてしまったら、もう死ぬでしょ。脳細胞をデジタル解析して、コンピューターにコピーするというのも、それが永遠の命かというと、コンピューターに水ぶっかけたり、ドリルで穴を開けたら、やっぱりおしまいだよ。結局、生まれたものは死ぬ。奇跡は必ず2度起きるんだね。
 「ぼのぼの」のスピンアウト漫画で「ぼのぼの人生相談」というのを描いてるんだけど、読者からよくあるのが「死ぬのがこわい」という相談です。つまり、死んだら無になる、または真っ暗闇の中で意識だけが続いている、という状態をこわがってるんだね。
 まず無になることだけど、無になってしまうんなら、意識も無になるので、なにもこわいことはないはず。それをこわがるのは、生きている状態でそれを想像しているから。だいじょうぶ、だいじょうぶ、無になったらそんなこと考えないから。真っ暗闇の中で意識だけが続いているのがこわいというのも、それもやっぱり生きている状態で考えるからこわいわけで、だいじょうぶ、だいじょうぶ、無になったら意識なんかないし。死について考えると、生きている側から考えるしかないので、わからないことがあり過ぎて、そりゃこわいね。人間はわからないことが一番こわいので。
 20年くらい前に全身麻酔で手術したことがあるんだけど、それはなんというか、失神するとか、熟睡するのとは全然ちがう状態で、まさしくブラックアウト。無というか、ほんとになんにもなかった。これが死んだ状態に一番近いんじゃないかと思ったら、死ぬのがあんまりこわくなくなったんだね。だってほんとになんにもないんだから。あのときおじさんは、麻酔と蘇生によって、死と誕生の2度の奇跡を経験したのかな。だとしたら、そんなに奇跡でもなんでもないかもしれないけど。
 そのとき、手術室に運ばれる前に注射されたら、やたら気持ちがよくなってね。あんまり気持ちいいんで、ベッドの脇に付き添って、不安で今にも泣きそうな顔の嫁さんにまで「こりゃ気持ちいい~」とか言ってたのを憶えてます。嫁さんは不気味だったろうね。手術前の緊張している時に、そんなジャンキーみたいなこと言い出したんで。注射されたのはたぶん鎮静薬かなんかじゃないかな。「天国みたいだった」とか言うと、それこそわざとらしいけど、ほんとに天国みたいだったよ。鎮静薬や麻酔薬の依存症になるお医者さんているけど、そりゃ気持ちはわかります。あの多幸感と万能感には逆らえない。とは言っても、何度でも全身麻酔手術したいとは思わないけどね。
 その手術というのは、甲状腺癌の手術だったんだけど、それはおじさんの母親も同じ病気で、やっぱり手術した。その手術の日に、たまたま付き添っていたら、麻酔から目を醒ました母親が、開口一番ボソリと「おら、死ぐがど思ったど」と言った。まぁ、はじめての全身麻酔の手術が不安だったというのもあったろうけど、麻酔と蘇生というのは、死と誕生をエミュレートしてるのかもしれないね。
 となると、死と誕生なんて、この世界にありふれていて奇跡でもなんでもないとも言える。たしかに、そこらじゅうで虫が死んでいたり、アリがわいてきたりするのがこの世の中で、なぜ死があるのかについては、細胞のアポトーシスの話はよくされるよね。傷ついて古くなった細胞は、新しく生まれる細胞のために自ら死んでいく、そうやって我々の体は維持されて行くわけで、もし細胞が死なずに増え続けるだけになると、癌化するし、傷ついた細胞の遺伝子まで受け継がれてしまって、その種は滅亡に向かってしまうと言われている。
 つまり、種の維持と繁栄のために、死は我々の中にプログラムされているというわけだね。たぶん科学的にはそれが正解なんだろうけど、我々はそんなプログラムの存在なんか感じたことはないので、今ひとつ理不尽さが拭えない。だけど、細胞が我々なら、我々も細胞ではないか。
 また年寄りくさい話になるけど、この1月で66歳になったんだね。一昨年の人間ドッグから、コルステロールが基準値の倍ぐらいになって、医者に「このままだと薬飲むことになりますよ」と脅されたので、去年の1月から甘い物断ちしてみた。まぁ、おじさんは酒は飲まない、タバコは20年前にやめてる、ギャンブルもしない、女遊びもしないというおもしろくもなんともないヤツなので、甘い物ぐらいはいいだろうと思ってたんだけど、それが毎晩必ずなにか食べるようになっていた。
 仕事中はなにも食わないけど、晩ご飯のあとに、まずなにか季節のフルーツを家族と食べて、そのあとにちょっと冷蔵庫にあるチョコでも口に入れると、さぁ、自分の部屋へ移動となる。そうすると、コーヒーといっしょに、どら焼きか、大福か、ヨーカンか、饅頭か、揚げ饅頭か、甘納豆か、カステラか、かりん糖か、キャラメルコーンとか持って行くわけね。他にケーキとかシュークリームとかドーナッツとかアイスクリームとかあると、その前に食べてから移動します。だってそんなに持てないからね。あはははははは。あははは、じゃないって。
 まぁ、スイーツ無双ぶりを自慢したかったわけじゃなくて、これからは楽しみを減らそうと思った。うまいものも、おもしろいものも、行きたいところも、会いたい人も、描きたいものも、まだあるんだけど、それを支えるだけの強度が肉体的にも精神的にもなくなっている感じがするんだね。
 そりゃ老化だろ、と言われれば、そりゃあ老化です。楽しみを味わうには、それを味わうだけの強度が必要で、それを無視しているとどこかで自分がへし折れそうな気がする。へし折れるまでやれよ、へし折れるのを見せてみろよ、と言われれば、いやいや、イヤです。そういうのを見て感動する人を、もう好きになれないし、そんなことやるために66歳までもたせてきたわけじゃないんで。とか言いながらも、へし折れてしまいたいという欲望も捨てきれないのが情けないです。
 さっきアポトーシスする細胞の話をしたけど、その傷ついて古くなった細胞ってどんなものなのか、それを知りたい気持ちはあるんだね。自分のまわりにいた細胞でも、もう死んでしまった細胞や、病気になってしまった細胞や、どこに行ってしまったのかわからない細胞までいる。今生まれたばかりの細胞もあるだろうけど、もうそういう細胞にはあまり興味がなくて、ただグッドラックとしか言えない。なぜそうなるかというと、細胞も前にしか行けないからだと思う。細胞も後戻りはできない。みんな前に進むしかない。前に進むから死んでしまう。
 だからできるだけ前に行きたいと思うわけだね、へし折れたりしないで。そうは言っても、スピノザの言葉を思い出して欲しい。この世界こそが神で、その中にいる我々すべては神の変状したものであって、神の外には行けないし、神の中で変状しつづけるだけである。これはエネルギー保存の法則でしょう。エネルギーは変状しつづけるが、永遠に存在しつづける。スピノザを読んだときに、おじさんはこう思ったんだね、オレの予想が当たったって。