ちくまプリマー新書

「シロ」という名の黒い犬? 名前と「らしさ」の不思議な関係

『「自分らしさ」と日本語』より本文を一部公開

社会言語学の知見から、ことばで「自分」を表現するとはどういうことかを考える一冊『「自分らしさ」と日本語』(ちくまプリマー新書)が好評発売中! 本記事では「名前」に対して人びとが無意識に抱いている感覚を見ていくことで、ことばの背後にある社会の規範や価値観を解きあかします。

 江戸時代まで日本は多くの藩に分かれていた。しかし、明治時代になって、日本をひとつの国に統合しようとしていた明治政府にとっては、国民を把握してしっかり徴兵・徴税することが重要であった。そのためには、国民が名前を変えたり、同じ人が複数の名前を使っていたのでは困る。そこで、一人がひとつの名前を使って戸籍を編製するように定めたのだ。改名するためには、国に届けて承認してもらわなければならなくなった。

 私たちにとって当たり前になっている「一人にひとつの名前」が生まれた背景には、国家が国民を管理する目的があった。以降、国家は国民の名前をさまざまな形で規制していくようになる。

 これを読んで、「そんなことはない。私の好きなアーティストは、みんな、個性的な名前で活躍している」と、思った人がいるかもしれない。その通りだ。私など、どちらが歌の題名で、どちらが歌手の名前なのか、わからないときがある。しかし、そんなアーティストも、税金を納めるときや、健康保険に加入するときには、戸籍に登録した氏名を使っているはずだ。

 一人一名主義は、名前を、個人を識別する符号のようにみなす考え方に結び付いた。その結果、現代の私たちは名前に関して名実一体観と名前符号観の両方をあわせもつにいたったのだ。

アメリカの命名と日本の命名の違い

 ちなみに、日本で子どもに名前を付けるときと、アメリカなどのキリスト教圏で子どもに名前を付けるときでは、大きな違いがある。

 日本では、漢字やひらがなの意味や音、字画を意識して組み合わせることで、新しい名前を作ることが多い。一方、キリスト教圏では、いくつかある聖人の名前から選ぶほうが一般的だ。だから、私のアメリカ人の友人には、ジョンがやたら多い。ジョンは、ヨハネに由来し、キリストの人間の父もヨハネだ。

 このような命名方法の違いは、同じ名前を持つ人に対する感覚にも影響を与えている。新しい名前を作る日本では、同じ名前、しかも、漢字まで同じだと、その人に親近感を持つことが多い。一方、たくさんの「ジョン」がいるアメリカでは、相手も「ジョン」だと分かっても、苦笑いするだけだ。

 ある日、私のもとに、きれいな絵ハガキが届いた。だれから来たのかと差出人を見ると、「中村桃子」と書いてある。自分が旅先から絵ハガキを出した覚えはないが、宛名も中村桃子だ。読むと、本屋で私の本を見つけた方が、たまたま、私と同じ中村桃子という名前の人で、うれしくなって、わざわざハガキをくださったそうだ。これも、名実一体観が生み出した縁だろう。もちろん、私もうれしくなってお返事を出した。

 先日、出会った人は、もっと徹底していて、自分と同じ名前の人の会を作ったそうだ。たしか、「ひろゆき」だった。漢字も同じでなくてはならない決まりにしたが、全国各地から、さまざまな職業や立場の人が参加しているという。同じ名前を持つという親近感があったので、はじめから親戚のように話すことができたそうだ。このような感想も、名実一体観の強さを示している。

人が変わって名前が変わる、名前を変えて自分も変わる

 このように、名実一体観と名前符号観が混在している地域では、人の変化と名前の間に二つの関係を想定することができる。