ちくまプリマー新書

〈答えのなさそうな問題〉の答えの出し方
『人生はゲームなのだろうか?』より本文を一部公開

「人生は神ゲーだ」「クソゲーだ」「人生はゲームじゃない」――人生について考えるのは難しい。人それぞれに意見は違う。「答え」がなさそうだから生きるのはつらい――でも、「答え」は出せる! 読書猿さんも推薦、〈答えのなさそうな問題〉に答えを出す力を身につける異例の哲学書『人生はゲームなのだろうか?』(ちくまプリマー新書)より、本文を一部公開します。

意見には前提がある

 例えば、「人生はゲーム」派の人に、「それはなんで?」と聞いてみましょう。実際に授業でもやったことがあります。すると「だって、人生もゲームも選択の連続だから」とか、「なぜなら、人生もゲームも勝ち負けがあるから」とか、いろんな理由が挙がってくるわけです。そうなんですよ、「「人生はゲームか」なんて、人によって違う」って言いたくなる気持ちも分からないではないけど、実は「人はどんな答えでも自由に(テキトーに)選べる」っていうわけじゃないのです。

 例えば吉村さんが「人生はゲームだと思う」と言うので、「なんで?」と聞いてみます。すると、「だって、ゲームはリセットできるけど人生はできないから」という答え。おお? これは変でしょう? 「ゲームも人生もリセットできるから、同じだ」というのならまだ分かります。でも、「ゲームはリセットできるけど人生はできないから、人生とゲームは同じ」っていうのは、理屈に合わない、筋が通らないわけです。

「ゲームはリセットできるけど人生はできないから」と言ったとたん、もう答えは決まってきます。理由がこれなら、答えは「人生はゲームじゃない」とならざるをえない。

「ゲームはリセットできるけど人生はできないから」という部分が、いわゆる理由あるいは前提です。で、そこから導かれてくる「人生はゲームだ」というのが意見結論。そして、理由と意見、前提と結論がスムーズに繋がっていれば、「理屈に合っている」ということになって、まともな意見になるわけです。

証拠を出せ!

 何か主張する、結論するためには、その理由=前提を示す。これは、自分の意見を証明する証拠を用意するようなもの。警察が犯人を捕まえるにしたって、証拠がなければいけないでしょう? 証拠なしに捕まえたって、裁判になったら無罪になって終わりです。っていうか、証拠がなければそもそも裁判にすらならない。いずれにせよ、捕まえた意味がない。

 それと同じで、自分では「意見」を言っているつもりでも、その証拠になる理由、前提がなければ、人からは「意見」として認めて貰えません。「人によって意見は違う」って言う人は多いけど、そんなのウソウソ。だって、そこで「意見」って言っているものは、たいていは理由、前提もなしに雰囲気だけで言っていることだったりするからです。「人によって意見は違う」というのは、自分で考えるのが面倒くさい人の言い訳に過ぎないのです。

「証拠となる理由、前提を出せ」なんて言われると、確かに面倒くさい。どうやったらいいのか、その手順も分からない。だけど、少し積極的な言い方をすると、手順さえ分かって一手間を掛ければ、出来上がってくる答えもひと味違ったものになるわけです。

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