失敗に厳しい時代を生き抜くために
現代は「失敗に厳しすぎる時代」と言えるでしょう。
ひと昔前は「失敗しちゃったけど、自分のまわりの一部のひとにしか気づかれていないし、そのうちすっかり忘れられるだろう」などと気楽に考えていられました。
しかし、いまは違います。
「過去の不適切な発言」という失敗によって、世間から大バッシングを受け、急きょ、2021年夏のオリンピック・パラリンピックの開会式の総合演出の座から外されたアーティストや芸人がいたことは記憶に新しいと思います。
失敗に対して、世間があまりにも厳しいという事実は、有名人に限られたことではありません。
たとえ一般人であっても、軽い気持ちでSNSにのせた写真や発言が、名前も顔もわからない匿名の大勢のひとたちからの批判や誹謗中傷の対象となってしまい、人格否定にまで至る大失敗となってしまうばかりか、「デジタル・タトゥー(ネット上から消せない傷跡)」となって、延々と苦しめられるケースも珍しくありません。
タレントや著名人ではなくても、私たちの誰もが「もし失敗したら、見知らぬ大勢のひとたちからネット上で袋叩きにあうかもしれない」と怯えてすごさなければならない時代に生きています。
そんな息苦しい今だからこそ、私が発案し、研究を続けてきた「失敗学」の必要性が増しているのです。
ただ、よく誤解されることがあるので、ここであえて言っておきます。
失敗学は「失敗しないための学問」ではありません。
失敗学は「創造的(クリエイティブ)に生きるための哲学」です。
たしかに、失敗学を学んだひとは、学ばないひとよりも、失敗する可能性を低くすることができるでしょう。
「だったら、やっぱり失敗学は失敗しないですむために必要な学問なんじゃない?」と思うかもしれません。
残念ながら、その考え方は間違いだと言わざるを得ません。
理由は二つあります。
一つは、日頃からどんなに用心深く行動しても、あるいは、どれほど失敗学を身につけたとしても、それでも「失敗」というものは必ず起こるからです。
あなたのまわりのひとたちのなかに「絶対に失敗しないひと」はいるでしょうか。どんなに完璧なひとに見えても、生まれてからこれまでの人生のなかで「私は一度も失敗したことがない」と断言できるひとはいないと思います。
十数年前まで、原子力発電に関わる機関の発表資料等では「原子力発電は絶対に安全な発電技術」とされていました。言い換えれば「原子力発電事業は絶対に失敗しない」と信じられていたのです。
しかし、2011年3月に起こった東日本大震災で、私たち日本人を含めた世界中のひとびとが悲惨な原発事故という「取り返しのつかない失敗」を目の当たりにして以降、そんな「安全神話」は完全に消え失せました。
どんなに注意しても、どれほどたくさん知識を蓄えても、失敗を完全に防ぐことはできない――つまり、失敗学の目標は「絶対に失敗しないこと」ではないのです。
もう一つの理由は、もし「失敗学を身につけて、とにかく失敗しないように」とばかり考えて、失敗に怯えながら過ごしていたら、成功する機会も、成長するチャンスも失ってしまい、人生がとてもつまらないものになってしまうからです。
失敗は必ず起こってしまうのですから、「絶対に失敗しないように」などというムダな考え方は捨てて、つい失敗してしまったら、気持ちを切り替えて「絶好のチャンス!」と考え、「なぜ失敗したのか」「この失敗からどんなことが学べるのか」を徹底的に分析・整理して、その後の自分の人生の糧にする知識やノウハウをきちんと身につけることが大切なのです。
その「分析・整理」や「糧にすること」の具体的な方法を学んで身につけるのが「失敗学」の目標です。
つまり、取り返しのつかないような大失敗ではなく、後からリカバーできるような失敗であれば、恐れることなく、「チャンスだと思ったら果敢にチャレンジできる自分」になるための哲学なのです。
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