私たちの生存戦略

補論 最後の花嫁――幾原邦彦論・試論【後編】

日本アニメ界の鬼才・幾原邦彦。代表作『輪るピングドラム』10周年記念プロジェクトである、映画『RE:cycle of the PENGUINDRUM』前・後編の公開をうけて、気鋭の文筆家が幾原監督の他作品にもふれつつ、『輪るピングドラム』その可能性の中心を読み解きます。

もうひとつの世界
物語は最終的に、イタルとギンが同一人物の中の別人格であることを示唆する。
二人の対話を描くシーンはだから、自己の内部での対話である。矛盾に満ちた、絶望と希望に引き裂かれた対話である。
ギンはここで、女性に対する憎悪を吐露していた。女性はろくでもない、自分しか見えておらず、責任能力もない、「気の狂った馬鹿ども」であって「あんな呪われた存在この世から消えてしまえばいい」と。
彼の言葉に対してイタルは「産んでもらっておいて」と言う。だが、虐待された子どもに常に寄り添ってきたイタルがこうしたことを口にするはずはない。要するにそれはギン=イタルの脳裏に焼き付いた呪いなのだ。イタルの言葉を聞いたギンは激昂する。「誰が頼んだ?! 責任を持てって言ってるんだよ この世界に命を産み落としたその責任を」と叫ぶのだ。生んだなら生んだ以上、その命を愛して、とギンは言いかけて言葉を詰まらせる。
殺さなければ殺されてしまう、だから大人を殺さなければならない、大人はコドモの絶対的な敵であり殲滅させなければならない、と常に訴えていたギンは、ここでヒツジとの「結婚」によって脱出を試みるイタルの内に自らを見出す。自らの存在を開始させた母の愛を得られなかったトラウマに気が付いたその瞬間、彼は自己の分裂の起源を知るのだ。
殺さなければ殺されるという状況の前に立たされ、「殺す」ことを選択してきたギンは、「だったら殺されたかった」という言葉に至る。それは自分を死に至らしめることである。母を愛することは自分を殺すことである。だからイタルとギンに分裂していたのだ。そして分裂を生じさせたその言葉に至った瞬間、イタルとギンの分裂なる生存戦略も停止する。

けれども、『ノケモノと花嫁』の何より特異な点とは、一度は解消されたギンとイタルの分裂が、物語の最終章で再び蘇っていることにあるのだ。
ギンと人格が統合され、消え失せていくかのようであったイタルは、彼の消失を食い止めようとするヒツジの「私たち結婚するのよ」という言葉で再び蘇る。「誰もあなたを殺さない」「殺させないわ」「二人で一緒に生きていくのよ」と言い募るヒツジの言葉が、彼の消滅を止める。「愛してるわイタル」というヒツジの言葉によって、死の淵にあった彼は新たな生を得ることになるのだ。
二人の結婚式が描かれる最終章では、ギンも「燃えるキリン」の面々も二人の式に参列している。と同時に、これまで常に物語で描かれてきた人形めいた頭身の姿とはまた別の、「現実」でのヒツジやイタルをはじめとする面々が描かれる。「燃えるキリン」が存在した世界と同時に、それを自己の内部に出現させずにはいられなかった現実の世界も描かれるのだ。
このことはたとえば『新世紀エヴァンゲリオン』が最終的に描いた結末とは、似て非なるものである。現実と空想の二項対立は、単に乗り越えられるべきものではないのだ。単なる二項対立ではない。明確に分け隔てられるようなそれではない。
アンシーが学園の「外」を目指し見事脱出を遂げたように、ヒツジとイタルも外に至るものの、とはいえ決して解消し得ない絶望を捨て置くことはしないのだ。

何しろ解放は時に残酷である。救済は時に暴力である。
いつか救われるのだというそれは、今ここにある苦しみを、その苦しみから抜け出し得ない数多のものを切り捨てる。今ここにある苦しみがいずれ訪れる救済によって全て贖われてしまうなんて、そんなことは受け入れられない。罪のない子どもを死に至らしめるようなおぞましい出来事が、それによってつけられた傷がいつか贖われるなどと考えることは出来ない。贖われることはギンを、「燃えるキリン」を否定することなのだから。けれども「燃えるキリン」のまま苦しみ続けることが、恐るべき苦しみに他ならないことも事実である。
だから脱出を企図しつつ救済の暴力にも抗おうとするこの物語は、二人の結婚式に参列するギンを、「燃えるキリン」を描くのだ。もうひとつの世界=「燃えるキリン」をただ現実に解消せしめたりしないのだ。
部分的に『新世紀エヴァンゲリオン』と重なるテーマ――現実と空想、自己と他者、その対立にあって自己の内部に閉じこもること――を含み持ち、とりわけ『輪るピングドラム』ではその返歌でもあるような「少年よ我に帰れ」なる主題歌まで持っていた幾原邦彦監督作品は、ここで全く別の結論に達していた。「愛してる」とそれは言う。それを抱えたままでは生きてはいかれないような苦痛が生じさせたものも含めて、愛してるのだと。愛されたものは死なないのだと。「愛は何度でも生まれて君の前にあらわれる」のだと、それは言うのだ。