私たちの生存戦略

第四回 自己犠牲と救済

日本アニメ界の鬼才・幾原邦彦。代表作『輪るピングドラム』10周年記念プロジェクトである、映画『RE:cycle of the PENGUINDRUM』前・後編の公開をうけて、気鋭の文筆家が幾原監督の他作品にもふれつつ、『輪るピングドラム』その可能性の中心を読み解きます。

家族の呪いは引き継がれる。連鎖する。傷ついた者が、自らを傷つけた当の者に似てしまうこともある。それは逃れがたい「運命」のようにさえ思えるのだ。
この自らの内に深々と埋め込まれたものから脱出するには、一体どうしたらいいのだろう? 「運命」を乗り換えることなど、どうすれば出来るだろうか。


ピングドラムという謎:『輪るピングドラム』
2011年に放映された、幾原邦彦監督による全24話のテレビアニメシリーズ『輪るピングドラム』(略称ピンドラ)――それは「ピングドラムを手に入れるのだ」という謎めいた言葉から始まる一種の冒険譚であった。
この物語は、傷ついた子ども達/かつて子どもだった大人達を描いている。
愛を得られなかったトラウマゆえに、今目の前にある愛も救いも見失ってしまう人々を描くのだ。ピングドラムという奇妙な言葉が、全く説明されず謎めいたままになっているのは、登場人物達もみな自分が何を得るべきなのか掴めていないためである。
そもそも、自分にとって本当に必要なのは何か、初めから明瞭に理解している人などどれほどいるだろう?
何を手に入れなければならないのかもわからない――このピングドラムという言葉の不思議は、視聴者を登場人物達の視点と同化させるにあたって極めて効果的である。
実際、この物語は執拗に、人が与えられた何かを受け止め損ねる様、、、、、、、、、、、、、、、、、、を描いていたのだ。


循環しない救済
物語の登場人物は皆、過去に呪われている。
愛されなかった記憶に、拒絶され、傷つけられた記憶に呪われ、各々異なる仕方ではあれど囚われたまま生きている。
たとえば冠葉は、かつて実の父に「お前を選ぶんじゃなかった」と言われたトラウマから、望ましい良い長男であろうとするあまり、恐ろしい犯罪を犯した高倉両親の行動を反復してしまう。両親に望まれる良き息子であろうとして、陽毬のために、という大義名分を抱えて犯罪を犯してしまうのだ。
だが陽毬のためを思ってした冠葉の行動は、陽毬をむしろ苦しめる。
彼女に「自分さえいなければ」という思いさえ抱かせてしまう。選ばれないことは死ぬことなのだと、実の母によって植え付けられたトラウマで学んでしまった陽毬は、過剰に「良い子」であろうとしてしまう傾向が常にあった。そして陽毬は、冠葉を救うために、自ら死を選ぶという選択に至るのだ(第二十二話)。
要するに陽毬もまた、冠葉の心を知らないのである。実の父によってトラウマを植え付けられた冠葉を救った人物こそ陽毬である(第二十一話)ことを、彼女は知らない。二人は各々、過去に呪われるあまり、自分が与えたものを知らないのだ。
そしてすれ違いは至る所にある。
たとえば冠葉の実の妹である真砂子は、彼女と弟を「普通の子」にするために実の父のもとに一人で留まった冠葉への恩を感じている(第二十二話)。兄である冠葉が、自らを犠牲にして自分たちを守ってくれたと。
けれども冠葉は、真砂子がどれほど自分に助けられたと思っているか知らない。むしろ彼女が自分を止めるために行う全ての努力を、妨害だと感じるのだ。
あるいは陽毬は、実の母に捨てられた自分を家族に迎え入れてくれた晶馬を「運命の人」だと感じていた(第二十話)。彼に救われたと。
だが、晶馬は犯罪者の子どもであることの重荷に苦しみ、陽毬を高倉家に迎え入れ彼女までをも「犯罪者の子ども」にしてしまったことに対する罪悪感を感じている。彼は陽毬が高倉家の子どもになったことでどんなに救われたのか知らないのだ。
もちろん、荻野目桃果に救われながら、彼女を失った悲しみのあまり復讐に身を焦がしてしまう多蕗とゆりもまた、桃果に与えられたものを受け取り損ねている人々である。
父に醜いと言われたゆりは、彼女を美しいと言い、呪いを解いてくれた桃果の言葉に、むしろ囚われている。彼女は「桃果以外に自分を美しいと言ってくれる人などいない」と思い込んでしまうのだ。桃果の身を呈した犠牲によって救われたはずの多蕗も、まるで自分を苦しめた母親のように、陽毬と冠葉を追い詰めてしまう。
二人は受け取ったはずの解放を、新たな枷に変換してしまったのだ。
ここにあるのは、過去に呪われるあまり、自分が与えたものにも人から与えられたものにも気づけず、愛を受け取り損ねる人々の姿である。
循環しない救済――だから物語の中で、手に入れるべきだとされる当のもの(ピングドラム)が謎めいたものであり続けているのは必然である。なにしろ皆、自分が何を受け取り損ねているのか、それさえわかっていないのだから。