軽やかに笑い合い、思いやって手を取り合う。
苦難を乗り越え手を繋ぎ、力を合わせて敵に立ち向かう。
そんな物語はもちろん必要で、けれどもそんな物語にさえ/にこそ、ひどく傷つく時がある。
笑い合う様を見れば、いがみあったことを思い出す。優しく思いやる様を見れば、ただ傷つけあうばかりだったことを。苦難を乗り越え手をつなぐ様を見れば、最も必要な時に寄り添えなかった/むしろ重荷に感じて手を振り払った記憶が蘇る。
私はあんな風には出来なかった、私たちはあんな風にはなれなかったと、そんな風に思い知らされる。だから勇気付けるために語られただろう物語の全てにむしろ一層のこと追い詰められてしまう。そんな時がある。
誰の手も取りたくない、と。誰の手も取りたくないし取ることなど出来ない。そう叫んでしまいたくなる瞬間がある。
チェ・ウニョンの短編集『ショウコの微笑』(くおん、吉川凪監修、牧野美加他訳)は、まさしくその瞬間に寄り添う物語だと私は思う。
たとえばここにおさめられた「オンニ、私の小さな、スネオンニ」は、軍事独裁政権下で起きた冤罪事件を扱っている。小説では、拷問された夫を抱え貧困に陥る女性と安定した生活を享受する女性として、社会によって分かたれていく二人の女性が描かれる。
あるいは「シンチャオ、シンチャオ」では、ベトナム人一家と韓国人一家の交流が描かれる。過去に加害者となった国の人と実際に家族を失った国の人の交流、築き上げていく掛け替えのない関係――けれども立場の違いによってそれは崩れていく。
どの小説も、どうしようもなく隔たってしまった記憶、耐えて手を取り続けることが出来なかった記憶が扱われている。手を取ることが出来ない――そんな風に感じている心の中のある部分に驚くほど正確に突き刺さり、深々と血を流させ、なおかつ血濡れの手を差し伸べ、寄り添ってくれる本。『ショウコの微笑』は私にとって、そんな一冊に他ならない。
あるいは、『覚醒するシスターフッド』(河出書房新社)におさめられたサラ・カリー『リッキーたち』(岸本佐知子訳)もまた、あの叫びたくなる瞬間に読んで差し支えない。
単行本タイトルを目にした瞬間に叫びだしたくなった、あるいは実際に叫んでしまったとしても、『リッキーたち』を読むことには何らの差し支えもない。むしろ『リッキーたち』は、そんな時にこそ読むべき物語、この単行本を手に取ることさえ出来ない瞬間にこそ届くべき物語である。
それは大学の“レイプ・サバイバー”のサークルで知り合った四人の女性たちを描く物語である。と、こんな風に紹介した瞬間に即座に生じてしまう過剰な意味付けや同情を、安易な共感を全て引き剥がしていく、それが『リッキーたち』である。彼女たちは自らを「リッキーたち」と呼ぶ。どんな主義主張でも彼女たちを言い表すには単純に過ぎるため、自分自身に名前をつける。スペルだけ変えて、みんな「リッキー」になるのだ。
小説はリッキーたちの容易ではない関わりを描く。畳み掛ける語り口は安易な消費を拒み、周到に避けられた物言いは言語化がもたらす暴力を拒み、軽やかな希望に満ちたハッピーエンドへの抵抗はあの叫びだしたくなる瞬間に寄り添っている。これは共に叫んでくれる小説なのだ。誰の手も取りたくないし誰の手も取ることが出来ない。『リッキーたち』にはそう叫ぶ私(たち)がいる。