私たちの生存戦略

第六回 壁を超え、続いていく人生を生きる

日本アニメ界の鬼才・幾原邦彦。代表作『輪るピングドラム』10周年記念プロジェクトである、映画『RE:cycle of the PENGUINDRUM』前・後編の公開をうけて、気鋭の文筆家が幾原監督の他作品にもふれつつ、『輪るピングドラム』その可能性の中心を読み解きます。

人がただ自分自身であるとは、どういうことなのだろう?
どうしたら自分であること、存在していることそのものを肯定できるだろう。続いていく人生を、どのように生きればいいだろう?

存在の罪をめぐる物語:『ユリ熊嵐』
思えば幾原邦彦監督作品は、常に「自分である」ことの困難さをめぐるものだった。
たとえば『少女革命ウテナ』は、棺の中に閉じ込められる少女の物語だった。
役割を押し付けられるあまり、自分を見失っていた彼女が自分自身になるためにはまさしく世界の革命が、少女革命が必要だった。
あるいは『輪るピングドラム』では、過去に呪われるあまり、与えられたものを常に受け取り損ねてしまう人々が描かれていた。愛されなかった子ども達は、愛される/愛されないという残酷なルールに支配された世界を生き抜くべくもがいていた。存在の根本を蝕む呪いから逃れるためには、まず自己犠牲が、存在の罪を贖い浄化することが必要だったのだ。
革命にせよ、テロルと表裏一体の自己犠牲にせよ、全ては「存在の肯定」へと向かっている。
そして『輪るピングドラム』の次作である『ユリ熊嵐』ももちろん、あの肯定へと至る旅路の途上にあるものだったのだ。
さて、2015年の『ユリ熊嵐』は全12話のテレビアニメシリーズであり、クマと人という、根本的に異なる存在がそれでも手を取り合うことをめぐる物語であった。
物語の中でクマは人を食べる存在であり、人はクマに捕食される存在である。
クマは人を食べる。クマが自分自身であろうとすれば、必然的に人を損なってしまう。だからクマと人は根本的に断絶している。
それでも心が通じ合う可能性はあるし、実際物語の中で、クマは人に救われ、人がクマに救われることもある。けれども超えがたい断絶はやはりある。
要するにクマと人をめぐる問題とは、他者をめぐる問題だった。
私とは決して同じではありえない、傷つけ合うこともあれば逆に救われることもある存在とは、「他者」である。
もちろん、私たちが普段、人と関係し合う中で、クマと人との間にあるような「断絶」を感じることは多々ある。クマと人の間の差異は、たとえばジェンダーやセクシュアリティにも、人種や国籍にも、社会階層にも見えるものである。差異はしばしば断絶の壁となる。むしろ断絶を感じ取ることこそ、他者と関係している証しでもある。
ただ、とりわけ自分が自分として存在していることを容易には肯定できない――まさしく『輪るピングドラム』の登場人物は皆これであった――と強く感じている時、存在していることそのものを罪深く感じてしまう時、その人は自分を人間であるよりはクマであるように感じるかもしれない。自分が自分として生きている、ただそれだけで、まるで害獣として人間世界の外側に放逐されてしまっているように。
つまり『輪るピングドラム』で執拗に描かれていた、存在していることそのものをめぐる罪悪感は、『ユリ熊嵐』ではクマとして表現されているのである。