私たちの生存戦略

補論 最後の花嫁――幾原邦彦論・試論【後編】

日本アニメ界の鬼才・幾原邦彦。代表作『輪るピングドラム』10周年記念プロジェクトである、映画『RE:cycle of the PENGUINDRUM』前・後編の公開をうけて、気鋭の文筆家が幾原監督の他作品にもふれつつ、『輪るピングドラム』その可能性の中心を読み解きます。

虐待者としての母=黒い花嫁
極めて切実な問題として立ち現れる「結婚」、そして解放の象徴としての〈花嫁〉――このことを考えるにあたってまず重要なのは、解放と名指される〈花嫁〉が一体何を排除して形作られたものか、ということである。
姫宮アンシーをあれほど苦しめた〈花嫁〉は、どのように『ノケモノと花嫁』で解放たり得るものとなるのか?
それは現状この国で異性間にのみ開かれた結婚という制度が、とりわけ〈花嫁〉となる女性にとって何に直結しているのか、という問題に関わる。異性間の排他的な性的パートナーシップに国家としての承認が付与される時、それは常に次世代の再生産に関わっていた。つまり子どもを作ること、女性が「母」になることが、そこでは自明視されていたのだ。
この意味で、親から子への虐待を描く『ノケモノと花嫁』において、虐待者がとりわけ母に代表されていることは重要である。

たとえば主人公のヒツジは、父によって性暴力を受け、その様を目撃してしまった母を父が殺害するというトラウマを負っていた。言うまでもなく圧倒的な加害者は父である。
が、物語の中では父には名前が与えられキャラクターとして全編を通じて登場し、単なる悪役というよりは人格ある存在として描かれ、最終的にはかつての友人によって解放される一方で、ヒツジの母は名前を与えられず、その顔も人格もほとんど描かれなかった。母は不可視化されていた。彼女の解放は決して描かれないのだった。
あるいは、「燃えるキリン」のメンバーである狼森エイジは、父親に暴行され死に至った子どもであった。だが彼にとって根本的だったのは、その際の母の行動である。暴力的な父に苦しめられる母は、かつて彼にあんたみたいな小さい子にまで手をあげるなんて許せない、次の仕事が見つかったら必ず離婚する、そうしたら一緒に遠くで暮らそう、と言っていたのだ。それはエイジと母の希望だった。夢だった。
だから母の言葉を信じたエイジは、母を守るため、母に暴行する父に決死の反抗を試みたのだ。けれども父の耳に噛み付いたエイジを止めたのは母だった。母に裏切られたという思いを抱えたまま、エイジは父に殺される。「燃えるキリン」として再生した彼を苦しめ続けるのは、母の裏切りなのだ。
そして物語の核となるイタルと「燃えるキリン」のギンの対立は、決して捨て去り得ない復讐心となおも別の道を模索することの、どちらも譲ることのできない切実さとしてあった。ここでも抜け出し得ない憎悪を抱えるギンのトラウマは、病んだ母親による虐待である。

要するに親から子どもへの虐待を描くこの物語において、虐待者とは母である。
たとえ直接的な加害者が父であったとしても、母こそが不可視化され、根本的な裏切り者として名指され、あるいは直接的加害者として立ち現れる。
問題は親でも父でもない。母なのだ。
復讐とは別の道を模索するイタルは、当初ギンに「僕は殺し合いに来たんじゃない」「お前を救いに来たんだ」と言っていた。けれどもそんなイタルがギンとの戦いに至るのは、ヒツジについてギンが「彼女は黒い花嫁になってキリンと契る」「そしてまたキリンを産むんだ」と語る言葉によってである。
新たなキリン=子どもを産む――イタルとヒツジにとって解放の象徴である〈花嫁〉が、「母」になる可能性を示唆された瞬間、イタルは怒りを露わにするのだ。ここでギンが「黒い花嫁」という言葉を用いていることは象徴的である。
要するに黒い花嫁とは「母」に繋がりうるそれであり、解放となる〈花嫁〉は母=虐待者になる可能性のない存在に他ならないのだ。