革命から取り残されたのは誰だっただろう?
幾原邦彦監督作品は常に、傷ついた子ども達の味方だった。
それは解放を志向していた。どれほど重苦しいテーマが描かれようとも、最後には何かしらの形で脱出が試みられていたのだ。けれども世界が革命され、運命が乗り換えられ、断絶の壁が越えられ、身も心もさらけだすさらざんまいで未来が目指され、あらゆる仕方で解放が描かれる中で、常にそこから取り残されていた人とは誰だっただろうか?
棺の奥深くに閉じ込められたまま決して解放されない〈花嫁〉とは、誰なのだろうか。
薔薇の花嫁とは何か
たとえば『少女革命ウテナ』(1997年)で描かれたのは、〈花嫁〉の解放であった。
物語の中で抽象的に「薔薇の花嫁」と表現されるそれは、女性ジェンダーをめぐる規範に深々と縛られる様を示していた。「薔薇の花嫁」には彼女自身の意思などなく、決闘の勝者=「エンゲージ」した人の思うがままであり、彼女の役割はただ魔法のような「世界を革命する力」を与えることにのみ集約されるという。
このことはたとえば、家父長制における女性がしばしば文字通り家と家の間で物のようにやり取りされ、仕事等の成功に際する「報酬」とみなされてきた歴史の戯画化であった。女性の意思は尊重されるよりは、父や夫や息子に尽くすことが是とされてきたのだ。
この規範を内面化し、他に選びようのない道の中で生き延びてきた女性にとっては、「あなたは本当はそんなことをしたくないはずだ」と言われることは、時にほとんど攻撃のようにさえ感じられるものである。それは彼女の生存戦略の否定、これまでの人生の否定、一方的に彼女を「かわいそう」と見下すことでもあるのだから。
あるいは、男性中心的な社会の中で「うまくやる」ために彼らの価値観に迎合し、女性蔑視的な発言や行為に反論するよりはむしろ積極的に賛同する女性もまた、表面的には従順さと正反対に見えたとしても、規範の内面化という意味では同様である。こうした女性は性差別やホモソーシャルなコミュニティのあり方への批判に、むしろ反対することがあるかもしれない。彼女自身が攻撃されたかのように振る舞うことさえあるかもしれないのだ。なぜならそれは実際、彼女への否定のようでもあるのだから。彼女にとって必要不可欠だった生存戦略を、根本的な裏切りとみなすことのようでもあるのだから。
女の子は結局みんな、薔薇の花嫁みたいなものですから――物語に登場するこのセリフはまさしく全てを物語っていたのだ。
規範を内面化した女性=「薔薇の花嫁」が単に被害者というだけではなく、時に共犯者のようにさえ見えるのはこういう訳である。自由意志は常に複雑極まりない。全ては単に二項対立で切り分けられるものではない。
だから女性を決闘でやり取りするシステム(=家父長制)や、女性の意思をないものとして扱うことに反論することは、それがどれほど表面的には正しくても困難になり得る。一方的な断罪や上から目線の同情、善意の押し売りと区別しかねる場合がままあるのだった。