集団は暴走する
集団内にいる人は、自分が集団内で異物になることを何よりも恐れるから、必死で周囲に同調しようとする。同調するためには周囲の動きを知らなければならない。つまり空気を読まなければならない。でも周囲の動きばかりに気をとられていると、自分たちがどこに向かっているのかわからなくなる。周りはみな同じ速度で動いているから、自分のスピードもわからなくなる。気がつけば全速力。こうして集団は暴走する。
2022年10月、韓国・ソウルの梨泰院(イテウオン)で、ハロウィンで仮装したおおぜいの若者が群衆となって押し寄せ、折り重なるようにして倒れて154人が圧死した。あまりに死者数が多いので世界中で大きなニュースになったが、実のところこうした事故は、世界中で頻繁に起きている。
梨泰院の事件から1カ月ほど前、インドネシア・東ジャワ州マランでサッカーの試合を観戦していた観客の一部が興奮してピッチに乱入し、これを鎮圧しようと警察が催涙ガスを大量に使ったことでパニック状態となった群衆は、出口へと暴走しながら倒れて折り重なり、131人が死亡した。
2015年9月には、イスラムの聖地であるメッカを訪れていた巡礼者たちが将棋倒しとなって、このときは2100人以上の人たちが圧死した。
少し時代はさかのぼるが、1956年1月1日、新潟県の弥彦神社で押し寄せた初詣客が群衆雪崩を起こし、124名が死んでいる。
もちろんここに挙げた群衆は、不安や恐怖があって群れ化した集団とは微妙に違う。でも暴走のメカニズムは変わらない。周囲が停まれば自分も停まることができるけれど、みんなが同じように走っているからそれもできない。やがて誰かが転ぶ。群衆は折り重なって転ぶ。あるいは断崖から落ちる。絶壁や岩にぶつかる。暴走する別の違う集団と衝突する可能性だってある。
こうして戦争や虐殺が起きる。特に20世紀以降、ほとんどの戦争は他国からの脅威に対する自衛や自国民保護を大義にしている。つまり正義だ。これには誰も反論できない。だからこそ摩擦が働かない。暴走しやすい。
ロシアがウクライナに武力侵攻したとき、プーチンが掲げた大義は、大きくは二つだった。ウクライナ在住のロシア系住民を保護するため。NATOがこれ以上拡大すると自国の安全保障が脅かされるため。ロシア国内の主要メディアは、政治リーダーであるプーチンのこの言葉を国民向けに「断言」しながら「反復」し、これに「感染」したロシア国民の多くは、ロシアの侵攻は自衛のための正義であり、ウクライナとこれを支持する西側諸国は悪なのだと今も信じている。
日本による中国侵略(満州事変)の口実とされた南満州鉄道爆破事件が、大日本帝国関東軍による自作自演だったことは戦後に明らかになっている。軍部の本音はアジアを支配することだった。ところがその10年後にアメリカに先制攻撃(パールハーバー)したときは、アジアを欧米列強の侵略から解放することが大義とされ、新聞はこれを「断言」「反復」して国民に伝え、「感染」した日本国民は軍部の暴走を熱狂的に歓迎した。
第二次世界大戦の始まりであるナチスドイツのポーランド侵攻も、ポーランドで迫害されているドイツ系住民を救出することと、第一次世界大戦における敗戦で失ったドイツ領を回復させて東方への「生存圏」を拡大することが大義とされた。その直接的なきっかけにされたのは、ポーランド住民によってドイツ領内のラジオ局が襲撃されたとするグライヴィッツ事件だが、これも南満州鉄道爆破事件と同様に、ドイツ軍による自作自演だったことが戦後に明らかになっている。
生存への不安と恐怖を刺激された集団は暴走する。多くの人が走り出したとき、自分だけ立ち止まり続けることは難しい。しかも国家という集団が暴走するときは、この動きに合わせない人は国賊とか非国民などと罵倒されるだけではなく、国家によって弾圧されたり逮捕されたりすることだってある。国家への反逆を理由に処刑される人だってたくさんいた。
だから集団化が始まったとき、多くの人は無意識に萎縮する。周囲に自分を合わせる。空気を忖度して自由に動くことができなくなる。もしもこのときメディアがしっかりと機能して権力を看視していたならば、少なくとも軍部の自作自演などは起こらなかったはずだ。でも集団化が始まったとき、萎縮と忖度のメカニズムは、メディアにも同様に働いている。
ドイツ国民がナチスドイツを選んだ理由について考察し続けたドイツ系ユダヤ人の社会心理学者エーリッヒ・フロムは、戦後に発表した著書『自由からの逃走』で、自由であることの孤独と責任に耐えられなかったからドイツ国民はナチスを選択した、と分析している。
自由とはむやみに他者と合わせないこと。個を保つこと。群れないこと。だから孤独と背中合わせだ。自分で判断しなければならない。その責任も自分に返ってくる。特に不安と恐怖が強くなったとき、多くの人はこの孤独に耐えられない。自由よりも束縛を選んでしまう。
人は実のところ自由に耐えられない生きものだ。むしろ適度な束縛を受けて安心する。フロムのこの指摘はとても重要だ。
テレビ・ディレクター時代、「放送禁止歌」をテーマにドキュメンタリーを作ったことがある。放送禁止歌とは何か。暴力的だったり性的に過剰だったり政治的に偏向していると判断されて、テレビやラジオなどパブリックなメディアで放送を禁じられた楽曲の総称だ。でも例えば、政治的な偏向とは誰が決めるのか。暴力的とは誰が判断するのか。その基準はどこにあるのか。
そんな思いで取材と撮影を始めてすぐに、放送禁止歌というシステムは実のところ存在していない、という事実に僕は直面した。要するに共同幻想。誰も禁止などしていなかったのだ。ところがテレビやラジオなど放送業界だけではなく、音楽業界や当のミュージシャン、さらにもちろん僕も含めて多くの人は、放送禁止歌というシステムや規制があるものだとすっかり思い込んでいた。
このときつくづく実感した。人は自由に耐えられない。むしろ適度な束縛を求める。ところがその束縛が暴走する。適度がエスカレートしてがんじがらめになる。日本のメディアは表現において、明文化された規制は実のところとても少ない。いわゆる放送禁止用語も含めて、そのほとんどが自主規制だ。つまりその気になれば、かなり過激な表現ができるのだ。
だからこそメディア関係者の多くは、内心は明確な規制がないことを怖れている。規制が欲しくなる。だって規制の内側にいれば安全なのだ。だから規制を作る。自分たちで。そして規制を自分たちが作ったことを忘れてしまう。そして規制が多すぎて表現ができないよ、などとため息をついている。その象徴的な存在が放送禁止歌だ。
集団化は僕たちホモサピエンスの本能だ。群れて生きることを選択したからこそ、萎縮や忖度が起きる。ならば放送禁止歌という幻想は世界共通のシステムなのか。僕が調べた範囲ではそうではない。きわめて日本的だ。
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