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〈3〉 我が子を野生児にしたい!  
☞ マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒けん』がオススメ

「恋のツラみ」から「職場でのつまずき」まで、現代人のお悩みに、世界文学のあの作品この作品を紹介しつつ、キリッと答えていく堀越英美さんの好評連載。第3回のお悩みは……

【お悩み】5歳になる息子がいます。男の子はわんぱくが一番だと思うのですが、妻は危ない遊びや暴力はいけないと息子に言い聞かせています。このまま妻に育児を任せておくと、軟弱ないじめられっ子になりそうで心配です。同性に一目置かれ、男の子社会をサバイバルできるたくましい野生児に育てるにはどうすればいいでしょうか。

【お答え】野生児のリアルを描いた『ハックルベリー・フィンの冒けん』を読んで、野生児への解像度を高めよう!

 

◆ 元祖 かっこいい野生児キャラ

制度や他人にとらわれることなく自由に生き、どんな環境でもサバイバルできる野生児。フィクションで繰り返し描かれてきたこうした男の子像に憧れる親は多いだろう。とはいえ、昭和のマンガによく登場した「血の気が多くてケンカっ早い男の子」が現実を生きるのは難しい。現代日本の学校では、一目置かれるどころか「すぐに手の出る子」として同性からも距離を置かれてしまうだろう。ヤンチャ少年が思春期を迎えてスマホを手にしたら、迷惑系ユーチューバーとなって親の社会的な死を招きかねない。

リアルにサバイバル力が高く、同性間で一目置かれる理想的な野生児のありかたを知りたければ、『ハックルベリー・フィンの冒けん』(マーク・トウェイン)を読むのが一番だ。日本では、アニメ化されたこともあって『トム・ソーヤーの冒険』のほうが有名だけれど、実際に”愛すべき不良少年”として今なお人気があるのは、圧倒的にハックルベリー・フィンのほうなのだ。

実際に同書を読めばわかるが、かっこいい野生児キャラの元祖であるハックルベリー・フィンは、意外なくらい複雑な内面を持つキャラクターである。それもそのはず、ハックルベリー・フィンは頭の中で作られたキャラクターではなく、現実の少年をもとに造形されているからだ。マーク・トウェインが少年時代に出会ったトム・ブランケンシップは、男の子ならだれでも憧れずにはおれない本物の野生児だった。マーク・トウェインは自伝でこう書いている。

ハックルベリー・フィンを通じて、私はトム・ブランケンシップという少年をありのままに描いた。彼は無知で、汚らしくて、ご飯も満足に与えられていなかったが、どの少年よりも善良な心を持っていた。彼の自由はまったく制限されていなかった。子供も大人もひっくるめて、村の中でただ彼だけが、本当の意味で自立した人間だった。その結果、彼はいつだって穏やかで幸せな日々を過ごしていて、僕たちみんなの羨望の的だった。(Mark Twain, Mark Twain's Autobiography, 訳は引用者)

自分よりいい服を着ている男の子が目の前に現れただけで「なぐってやるぞ!」とイキって取っ組み合いのけんかを始める中流家庭のトム・ソーヤ―(『トム・ソーヤ―の冒険』)に比べ、浮浪児のハックルベリー・フィンはいたって平和的だ。母親はおらず、父親は飲んだくれのDV男で、学校には通っていない。家がないから雨が降ったら樽の中で寝て、晴れていれば川で釣りをしたり泳いだりして過ごす。自分で火を起こして魚を焼き、果実を摘んでご飯を済ませる。

家庭で庇護され、学校に管理されているトムをはじめとする村の少年たちは、たくましさを示すために暴力をふるい、小さなケガを見せびらかし、大人にいたずらをしかけ、かわいい女の子たちに承認されようとする。だが、もとより誰にも庇護されていないハックルベリー・フィンは、わざわざそんなことをする必要がない。甘やかされたことがないので、女の子へのあこがれもない。だからいつも穏やかでハッピーでいられる。

自立はもしかしたら、少年世界で一目置かれるにあたって、肉体的な強さやガタイのデカさよりも重要な要素なのかもしれない。私自身もそのことを実感した経験がある。子供が通う保育園に、両親が超多忙で1日12時間近く預けられている男の子がいた。朝ご飯を用意する時間もないから、『傷だらけの天使』のショーケンのように魚肉ソーセージをかじりながら、自転車のチャイルドシートに乗って登園していたそうだ。体こそ小さめだったけれど、いち早くママ離れしていた彼はクラスの男子のアニキ的な存在だった。ある男児ママ曰く、一人で着替えできなかった男児たちも、彼に憧れて着替えられるようになったらしい。確かに大人から見ても、不思議な落ち着きとクールさのある園児だった。

◆ 「自分は自分のままでいい」と思えるように

『ハックルベリー・フィンの冒けん』は、前作『トム・ソーヤ―の冒険』のラストで盗賊が洞窟に隠した大金をトムと一緒に見つけたハックルベリーが、行儀にうるさいダグラス未亡人とミス・ワトソンに預けられたところから始まる。それまで風通しのいいぼろ服を着て自由きままに過ごしていたハックは、学校の勉強や無意味なお作法に苦しみながらも、文明的な生活を送るようになった。そこへDV親父が金の匂いをかぎつけてやってくる。自分よりいい暮らしをして文字が読めるようになった息子が気に食わない父親は、ハックをボートで連れ去って小屋に閉じ込めてしまう。息苦しい服も親父の暴力も、もうまっぴら。村を飛び出したハックは逃亡奴隷のジムと合流し、いかだに乗ってミシシッピ川を下っていく。

ハックは特に思想があるわけではないので、黒人が白人の奴隷主の財産でしかなかった当時の価値観のもと、奴隷の逃亡を助けた罪の意識に悩まされることもある。でも彼はいつでも世間のしきたりよりも、親切にしてくれた友達を助けたいという自分の良心を優先する。ハックにとってもっとも大切なのは自由と自立だから、友達にもそれが与えられるべきだと思うのだ。

ハックは数々のピンチをジムと助け合いながら乗り越えていくうちに、親友トム・ソーヤーとの友情がかすむくらい、ジムと深いところでわかりあえるようになる。実際、ハックにとってジム以上にすばらしい相棒はいない。

ハックとジム以外の人々の多くは、自分以外の何者かになろうとする人間として描かれる。王様と公爵になりきっているペテン師二人組、貴族のプライドのために宿縁の家同士で殺し合う南部貴族の一家、悲しい新聞記事を集め、感傷的なポエム付きイラストを描き続けた女の子。そして物語に出てくるような脱獄囚の共犯者になりきりたいあまり、ジムを危険な目に遭わせるトム・ソーヤ―。それまでトム・ソーヤ―の賢さに憧れていたはずのハックは、最終的にトムへのツッコミ担当になっている。自意識やメンツに翻弄される他の登場人物との対比で、自分以外のものになろうとしない野生児ハックとジムのさわやかさがきわだつ

ハックは優しい人間だ。悪人相手にだって暴力をふるったりはしないし、それどころか悪者の言うなりになってしまうこともある。それも、彼の共感力に分け隔てがないからだ。ジムを売り飛ばした悪人が人々からひどい目に遭わされているときも、ハックはスカッとするのではなく「気のどく」(p.418)だと考える。悪人認定した相手にならいくらでも残酷になれる人間たちが怖いと考えるのがハックなのだ。

我が子をハックのようなすてきな野生児に育てたいなら、親は死ぬか飲んだくれのドクズになったほうがいいのだろうが、現実問題としてそういうわけにもいかない。さしあたり言えるのは、子供を大人の理想像に誘導しようとすればするほど、子供は野生児から遠ざかるということだろうか。親ができることはせいぜい、我が子の性質をじっくり観察して、自分は自分のままでいいと思えるような関わり方を各自模索するぐらいしかないのかもしれない。

そもそも我々大人だって、ハックみたいに風通しのいい服を着て、寝そべって月を眺め、おなかがすいたらベーコンとトウモロコシパンを焼いて食べるような自由な人生を送れているだろうか。本書を読めば、小集団の中でナメる・ナメられないの小競り合いを繰り広げるちっぽけな場所を抜け出して、子供と一緒に広い場所に出たくなるはずだ。子供が親と一緒の旅を無条件に楽しんでくれるのは、幼い頃のほんのわずかな期間に過ぎない。父子で野外に出て、「ママにお世話されていない」自立オーラを子供にまとわせてあげよう。そして文明に毒された無力な自分に落ち込んでしまったときは、ハックの父親よりは絶対にマシだと思って元気を出そう。

 

『ハックルベリー・フィンの冒けん』マーク・トウェイン著、柴田元幸訳、研究社、2017年

マーク・トウェイン(1835-1910)は米国の小説家。本名、サミュエル・ラングホーン・クレメンズ。フロリダの開拓民の家に生まれ、4歳の時、ミシシッピ河畔の町ハンニバルに移住。12歳で父を亡くし、学校をやめ、働き出す。兄が発行する新聞に記事を発表し始めたのは1851年のこと。以後、各地を転々としながら種々の媒体に寄稿。22歳の時、ミシシッピ川の蒸気船の水先案内人に。筆名「マーク・トウェイン」は「水深二尋」を意味する水先案内人の言葉。1865年、新聞に掲載されたほら話「ジム・スマイリーの跳び蛙」で一躍有名に。その後、『トム・ソーヤーの冒険』(1876)、『ハックルベリー・フィンの冒けん』(1885)など代表作を次々と上梓。晩年にはペシミスティックな作風に転じていった。 (編集部)

 

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