あなたの悩み、世界文学でお答えします。

〈5〉 親からバカにされ続け、自尊心、削られまくりです……
☞ モンゴメリ『青い城』がオススメ

「恋のツラみ」から「職場でのつまずき」まで、現代人のお悩みに、世界文学のあの作品この作品を紹介しつつ、キリッと答えていく堀越英美さんの好評連載。今回のお悩みは……

【お悩み】 私はいわゆる人生の負け組です。恋人も友達もおらず、仕事もやりがいを感じません。母親には「産まなければよかった」「何をやらせても満足にできない」と罵倒されています。自分が言うことはすべて親や親戚にバカにされたり怒られたりしてきたので、実家を出て一人暮らしをする自信もありません。

【お答え】 抑圧され続けた娘が大爆発するモンゴメリ『青い城』を読んで、罪悪感で支配しようとする身内から逃げよう!

 

◆ 親戚ピクニックのユーウツ

『赤毛のアン』で知られるモンゴメリには、母親に抑圧され、親戚にバカにされていた地味な独身女性があることをきっかけに爆発する『青い城』という小説がある。主人公のヴァランシーは29歳。現代では珍しくないが、1世紀前のカナダでは「オールド・ミス」と呼ばれ、町のうわさになるような年齢だったらしい。

彼女は冒頭、雨が降っていることを知って神に感謝する。毎年恒例の親戚ピクニックが中止になるからだ。親戚が集まると、未婚であることや体型をネタにからかわれたり、美人のいとこの引き立て役にされたり、いやなあだ名で呼ばれたり、太ったおばさんに昔の自分の美貌と比べられたりと、不愉快なことばかり。一番イラッとするのは、会うたびにトンチのきいたなぞかけでヴァランシーの未婚や年齢をいじるベンジャミンおじの存在だ。こんな親戚に囲まれるピクニックから始まる映画があったら、巨大ヒグマの襲来を待ちわびずにはおれないだろう。

ところがヴァランシーはいくら失礼なことを言われても、波風を立てないように応対し続ける。親戚を怒らせて遺産が分配されなくなると、働きに出ることが許されていないヴァランシーは老後困窮してしまう。さらに彼らが告げ口をしたら、母親がヒステリーを起こすだろう。彼女が恐れていたのは「母親」と「老後」だった。

父親を早くに亡くし、母親と暮らすヴァランシーは、生活を完全に母親に管理されている。図書館で小説を借りることすら禁じられ、ダサい自室を模様替えすることも許されない。自宅にこもって母の命令で家事をし、空いた時間は使うあてもないパッチワークキルトを延々と作らされている。ヴァランシーが引っ込み思案で友達も恋人もいないのは、外界との接触と自由を制限する母親のせいであることは明白だ。そんな彼女の逃げ場は、幼いころから心の中に築いてきた「青い城」である。ヴァランシーは想像上の城のなかで一番美しく、華麗な恋愛遍歴を重ねてきた女性というドリーム設定を生きる。彼女が恐れから自由になれるのは、青い城の中だけだ。

◆ 「これからは、自分を喜ばせることをしよう」

ヴァランシーが現実社会で恐れから解放されるきっかけになったのは、皮肉なことに心臓病で余命1年を宣告されたことだった。もう老後の心配をしなくていい! 同時に、こうも思う。自分は母親に愛されたことがない。愛を知らず、楽しい思いも、ときめきも経験したことがない。このまま死んだら、自分の人生は空虚ということになってしまう。そんなのはいやだ!

「これまで、あたしはずっと、他人を喜ばせようとしてきて失敗したわ。でもこれからは、自分を喜ばせることにしよう。(…)今までやりたいと思っていたことを全部やるのは無理かもしれないけれど、やりたくないことは、もう一切しないわ。お母さんがふくれるなら、好きなだけふくれていればいいわ――もう、気にするもんですか。『絶望は解放、希望は束縛』よ」(p.76)

ヴァランシーはまず、母親の言うなりをやめた。「母親に向かって、なんてことを言うんだろう!」「恩知らず」と罪悪感を与えて支配しようとする母親の定番の脅しにも、「娘に向かって、なんてことを言うんでしょうね」とどこ吹く風。あんなに母親を怒らせることを恐れていたのに、恐ろしいことなど何も起きはしなかった。

勢いを得たヴァランシーは、親族の集いにも参加する。親族たちのいじりをユーモアたっぷりにやりこめ、「若い女とオールド・ミスの違いは何かね?」といういつものベンジャミンおじの未婚なぞかけにも愛想笑いなどしない。「ベンおじさんたら、あたしが覚えているだけでも、もう五十回はそのなぞかけをしたわ。(…)どうせ成功しないのに、人を笑わせようなんてちゃんちゃらおかしいわよ」(p.96)。

いつも通りおもちゃになってくれないヴァランシーに、一族はおおあわて。自分のイジリがすべっているという現実をつきつけられて大恥をかいたベンジャミンおじは憤激する。だが、成人女性相手に鞭をふるうわけにもいかず、何もできない。このくだりはすごく爽快なのだが、ヴァランシーは思ったことを言う満足感を堪能した後、ふと虚しさを感じる。ただバカにし返すだけではだめなのだ。自分を必要とする人のところに行って、自分だけができることをなしとげなくては。

ヴァランシーがなすべきこと。それは優しく美しかったかつての級友シシイを看病することだった。死期の迫ったシシイとその老いた父親は、ある事情でヴァランシーの一族を含む町の人々からバカにされ、孤独な暮らしを強いられている。彼女はその家の家政婦になるため、初めて実家を出る。自分がケアしてやらねばならない人が一人いる。それだけで、ヴァランシーは過去の一切を捨てられると思えた

◆ 怒涛の胸キュン&胸スカ展開

ここまでが前半のあらすじ。ここから先は序盤の陰鬱さが反転したかのように、仕事で必要とされる喜び!ちょっぴり危険なダンスパーティ!謎めいた不良!森の中の一軒家で二人きりの暮らし!(ときめき!)猫!(かわいい!)美しい大自然!(モンゴメリ!)……からのハッピーエンド!(手のひらを返す親戚!)という怒涛の胸キュン&胸スカ展開が続く。巨大ヒグマが襲来しなくて本当によかった。

甘いロマンチック小説といえばそれまで。だが、おとぎ話のように、忍耐し続けた少女がご褒美として白馬の王子様に迎えられるというお話ではない。ヴァランシーが自分の人生を生きることができるようになったのは、母親に逆らって家を出て、受け身の自分を捨てたからだ。良家の娘が働きに出るなんて一族の恥だとされた時代に使命感から病人の世話をし、周囲の評判に惑わされることなく愛する人を自分で見つけ、求婚も自分からする。ヴァランシーは周囲から疎外され、一人で過ごす時間が長かったぶん、通俗的な価値観に流されないという美徳があった。周囲を恐れすぎて、自分の価値観を貫くことができなかっただけなのだ。

「恐れは、原罪である」

「世の中のほとんどすべての悪には、その根源に、だれかが何かを恐れているという事実がある。恐れは、冷たい、ぬるぬるした蛇のように、あなたにまとわりついてくる。恐れを抱いて生きるほど、恐ろしいことはない」(p.44)

ヴァランシーが自分はみっともない恥さらしだと信じ、おどおどして周囲になめられていたのは、母親にダメ人間扱いされ続けていたのが一因である。母親は「恐れ」という重しを載せて、娘が自分のもとから逃げられないようにしていたのだ。支配する対象を常に必要とするタイプの人間にありがちなことである。

◆ 恐れを捨てたら、意心地のいい場所を探しに行こう!

「私を捨てるのか?」などといって罪悪感を抱かせたり、不機嫌で家中を支配したり、お前には何の取柄もないから自分のもとにいるしかないと信じ込ませようとする身内からは、一刻も早く逃げたほうがいい。平均寿命から自分の年齢を引いた年数をずっと耐え続けて生きるのかと考えてみるのもいいかもしれない。いきなり家を出るのが難しくても、『青い城』の気の利いたヴァランシーの返しの数々を参考にして、押さえつける言葉に反論してみよう。支配対象だと思っていた人間の反撃に、相手はうろたえ、被害者のような顔をしてくるだろう。その滑稽な姿を見て、相手を哀れな弱い人間だと思えたら、恐れは徐々に消えていくはずだ。

『西の魔女が死んだ』(梨木香歩)に、「サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。シロクマがハワイより北極で生きるほうを選んだからといって、だれがシロクマを責めますか」(p.162)という有名なセリフがある。自尊心を削られる場所にい続けるのは、シロクマがハワイに定住するようなものである。きっちり反撃して恐れを捨てたら、自分が必要とされる、居心地のいい場所を探しに行こう。

 

◎ 『青い城』モンゴメリ著、谷口由美子訳、角川文庫、2009年

モンゴメリ(1874-1942)はカナダの小説家。プリンス・エドワード島に生まれ、幼くして母を失い、この島のキャヴェンディッシュ村に住む祖父母の手で育てられる。世界的ベストセラー『赤毛のアン』に登場するアヴォンリー村のモデルは、祖父母と暮らしたこの村だという。十代のころから詩や短篇を雑誌に投稿し、大学では文学を学ぶ。在学中に教員資格をとり、小学校の教員に。23歳の時、郵便局を営んでいた祖父が亡くなったため、祖母を助け、郵便局で働き始める。こうした中でも小説を書き続け、1908年に『赤毛のアン』を出版し、一躍人気作家に。36歳の時、長い婚約期間を経てマクドナルド牧師と結婚。オンタリオ州に移り住み、数多くの作品を執筆した。『青い城』は1926年刊。(編集部)

 

関連書籍