移動する人びと、刻まれた記憶

最終話 放浪の医師①
元NATO軍軍医、ドクター・チェ(前篇)

韓国史・世界史と交差する、さまざまな人びとの歴史を書く伊東順子さんの連載最終話の前篇です。日本統治下から朝鮮戦争、そして「戦争孤児」。ベルギーで聞いた元NATO軍軍医ドクター・チェの話。

釜山UN記念公園で
  6月の終わりに、釜山にあるUN記念公園(通称UN墓地)を訪れた。もう何度も行ったところなのだけど、今回はちょっと確認したいことがあった。少し前に東京で朝鮮戦争に参戦したオーストラリア兵士の物語を聞く機会があり、そこで報告者のバスウェイ教授に「日系人兵士」の話をしたからだ。
 「以前、釜山のUN墓地に行った時に、追慕碑にある戦死者の名前を見ていたら、『日本の名前』がとても多くて驚いたのです」
 バスウェイ教授がその話にとても興味を示されたので、もう一度確認しておこうと思った。UN墓地は朝鮮戦争中の1951年に、韓国軍とともに戦った国連軍の戦死者を埋葬するために造成され、それが現在にまで続いている(韓国では国連のことをUNという)。安置されているのは13カ国2327人。出身国別ではイギリスが892人で最大、次はトルコ462人、カナダ381人、オーストラリア281人と続く。
 「アメリカ軍は戦死者の遺体を本国に運びます。でもイギリス軍は戦地に埋葬する。戦友とともにいるのです」
 バスウェイ教授の話を聞いて、以前からの疑問がとけた。
 「国連軍」は16カ国の軍隊と6カ国の医療支援部隊で編成されたが、その中心は米軍だった。公園の奥には 「UN軍戦没兵追慕碑」があり、そこには 戦死者4万896人(行方不明者含む)の名前が国別に刻まれているのだが、米軍だけは人数が多すぎるためか、3万6492名は州別になっている。そこを何気なく見ていて気づいたのが、「日本の名前」だった。特にハワイ州にはものすごい数の「日系人」と思われる戦死者名があった。
 ユキト・ミヤタ、シゲオ・ミヤザキ、ツネマツ・ミズサワ……。

 1959年に出版された『パイナップル部隊』(ロバート・本郷著、文藝春秋)は、朝鮮戦争に従軍した日系二世の著者が、実際の体験をもとに書いた小説である。その中には、日系人部隊を見て中国兵が「日本軍が参戦している」と誤解したという興味深い記述もあった。『パイナップル部隊』は同年に松竹で映画化もされており、杉浦直樹、伴淳三郎、十朱幸代といった豪華キャストが並んでいる。
 私は釜山で日系人兵士の名前を見て驚いてしまったのだけど、年配の記者たちに聞いてみたら、「ああ、パイナップル部隊ね」と特に驚く様子もなかった。1950年代末の日本ではよく知られた出来事たったのかもしれない。
 その時代の人にとって当たり前すぎることや、常識で知っているようなことほど、時代とともに忘れ去られてしまうこともあるのだろう。
 丘の斜面に作られた広大な墓地の一番上では、国連旗を中心に13国の国旗がはためいている。いつも必ず写真を撮るのはベルギー国旗だった。この旗がちゃんとあることを見せたい人がいたから。7年前の夏、ブリュッセルで会った北朝鮮出身の老医師は、朝鮮戦争の時にベルギー軍とともに戦った人だった。

2017年夏、ブリュッセル郊外 
 ベルギーの韓国系移民中で最長老の医師が暮らす街は、ブリュッセルの中心部からトラムで北に30分ほどの郊外にあった。トラムの終点駅は深い緑の中にあり、近くに建てられた高齢者用マンションは、庭もエントランスもエレベーターも、欧州の街中住宅とは違い広々としていた。
 2017年夏、ベルギーの友人を訪問した折に、現地在住の日本人ジャーナリスト栗田路子さんから、是非インタビューしてほしい人がいると言われた。
 「北朝鮮出身で元NATO軍の軍医さんなんだけどね」
 聞いた瞬間に飛びついた。え、そんな人がいるのか? 是非、会いたい。
 ただ、初動はいつもながらの「早とちり」だった。「北朝鮮出身」と聞いて私が思い浮かべたのは、現在の北朝鮮から脱出してきた、いわゆる「脱北者」だった。ところが路子さんはそこをバッサリと否定し、しかし不思議な話をしてくれた。
 「彼がヨーロッパに来たのは60年も前のこと、朝鮮戦争に参戦したベルギー軍に連れられて来たのよ」
 私はあらゆる予定をどかして、彼に会うことにした。

 ベランダから顔を出していたチェさんは、私たちに気づいて下まで降りてきてくれた。初対面の印象は、思った通りの人。下がった眉毛も、人の良さそうな笑顔も、清潔な服装も、年齢のわりには長身で姿勢がいいのも、私が大好きな「韓国ハラボジ」だった。
 「よく来てくれましたね」
 彼は日本語を話し、私は韓国語で答えた。
 「アンニョンハセヨ」
 「わあー、朝鮮語も上手だね。すごいね」
 相好を崩した彼は、日本語で言った。
 実はインタビューの言葉をどうするか、ずっと考えていた。彼は日本語も韓国語も達者だと 路子さんから聞いていた。ただ、妻のリアさんはオランダ語圏のベルギー人で、オランダ語とフランス語に加え英語も話すが、日本語や韓国語はできない。複数の国をまたいだインタビューはいつもながら悩ましい。そこでブリュッセル在住の友人が、「私がリアさんに通訳するから」と同行してくれた。彼女は日本語とフランス語を話す。
 リビングルームは、花があふれていた。テーブルの上にはリアさんお手製のケーキ、ベリーの赤が鮮やかだった。この太陽のように明るい女性と、チェさんが出会ったのはドイツだった。二人はNATO軍の病院で軍医と看護師として働いていた。出会った当時、チェさんはすでに40代、でもリアさんはまだ20代だったという。
 「一目惚れでしたか?」
 チェさんが照れ笑いをする。リアさんにそれが伝えられると、彼女は大らかに笑う。リアさんが古い写真を持ってきてくれた。
 「チェ先生ですね?」
 「そう、そしてこれが私」
 手術室でメスを握る外科医、それを見つめる看護師。写真はカラーだったのだろうが、既に色褪せている。
 「40年前の写真です。そこまで来るのに、私は本当に苦労しましたよ」
 チェさんが日本語で話し始めると、リアさんはスッと席を立った。
 「大丈夫、私は何度も聞いた話だから」
 ニッコリと目配せする彼女は、私達が話しやすいように、気を利かせてくれたようだ。