移動する人びと、刻まれた記憶

第6話 徒手空拳のコリアン・ファイターたち②

鞍山の老武道家マスター・リー、そしてチェ・ベダル(大山倍達)のこと(後篇)

韓国史・世界史と交差する、さまざまな人びとの歴史を書く伊東順子さんの連載第6話の後篇です。アメリカに渡ったコリアン・ファイター、マスター・リーの数奇な人生について。ぜひお読みください。

第6話前篇はこちらから↓
https://www.webchikuma.jp/articles/-/3513

10年間で70万人が移民した時代

 「それにしても、どうしてマスターは気づかなかったのですか? 表紙に船員手帳と書いてあるのだから、見ればわかるでしょうに」
 そう思うのが普通かもしれない。しかし、マスターは空港の入国審査官に指摘されるまで、「パスポート」と「船員旅券」の違いなど知らなかった。無理もない話だ。この時は彼にとって、生まれて初めての海外旅行だったのだ。
 そもそも当時の韓国で、実際にパスポートを見たことのある人など皆無に近かった。韓国で海外旅行が自由化されたのは民主化後の1989年からであり、それ以前には特別な理由がない限り、一般国民がパスポートを持つことはなかった。だから「移民公社」等の看板をかかげたブローカーが明に暗に活躍し、マスターはその暗いほうに引っかかってしまったのだ。
 ちなみに「船員手帳」というのは文字通り、船の乗組員に与えられるもので、一般のパスポートとはまったく別物だ。場合によっては外国への上陸が許可されるが、あくまでも荷物の積み下ろしや給油のためである。それがマスター・リーに与えられた3日間の意味だったのだ。
 韓国で米国移民が本格化するのは、1965年に「米国新移民法」が成立して以降である。それまで制限されていたアジア地域からの移民にも門戸が開かれ、韓国における移民ブームにつながった。
 韓国政府の統計資料によれば、1971年には6万人だったコリアン・アメリカンが1978年には約40万人、その10年後の1988年には約110万人にふくれあがっている(韓国外交部『海外同胞現況』)。
 多くが初めての海外渡航だった。「移民バッグ」と言われる巨大なキャスター付きカバンを引きずって、生まれて初めて見るパスポートをしっかり握って、言葉も通じない未知の国に引っ越したのである。

1976年11月、国があるのに、ボート・ピープルになった?
 さて、アメリカ人女性と結婚し、晴れて永住権を取得する予定のマスターだったが、そうは問屋が卸さなかった。
 「オーバー・ステイのせいですね?」という問いに、マスターは「米国はちゃんとした民主主義の人権国家です。それは全く問題ではなかった」ときっぱり答えた。そして私の顔をじろりと見ながら言った。
 「韓国ですよ」
 話の続きが始まった。
 結婚式をすませたマスターは、移民局に提出する必要書類をそろえるべく、韓国領事館に出かけた。ところが領事館の対応は信じられないものだった。連絡をするから待てというばかりで、なんと二年近く申請が放置され続けたというのだ。
 ここで少し解説が必要かもしれない。アメリカ人と結婚した外国人配偶者には、優先的にグリーン・カードとよばれる永住資格が与えられる。これは外国人への温情というより、自国民の幸福権が基本にあるという。つまり米国の国民には「愛する伴侶と一緒に暮らす権利」があり、国はそれをサポートしなければならない。
 よって、ここで「愛する伴侶」であるマスターのオーバー・ステイは大きな問題にはならなかった。ただ、期限が切れた船員手帳の代わりに、身分を証明する書類を韓国政府に発行してもらう必要があった。マスター・リーは正真正銘の大韓民国の国民であり、期限切れ旅券の更新や本国戸籍の照会は領事館の通常業務である。なのに、来る日も来る日も領事館は彼を無視し続けたのだ。
 新婚の妻は、異国の地で母国に傷つけられる夫が不憫で泣き、周囲の友人たちも二人に同情した。サポートを申し出る人も多かったが、その方法はまさに玉石混交(いや石ばかり)だった。
 「ある中国系ブローカーは、海外の米国大使館に行って、そこで結婚証明書を見せて泣きつけと言うんだよね。中米のコスタリカあたりなら、安く手配してあげられるとも。その他にもいろいろなアイディアを彼は持っていて……」
 「まさか、そんな話に乗ったんですか!?」
 「いや、まあ、彼はプロのブローカーだったからね、それは、いろいろと……」
 マスター・リーという人はお人好しで他人の話をすぐに信じる、ある意味で韓国人に多いタイプだった。彼は人々に言われるがままに一年半余りの日々を、まさに東奔西走したのである。
 「妻はあの時のことを映画にしろといいます。私はボート・ピープルよりも悲惨な目にあった。国があるのにもかかわらず、です」
 時まさにサイゴン陥落の翌年だった。漂流するインドシナ難民は船員手帳すら持たなかったが、米国は彼らを世界のどの国よりも多く受け入れていた。