ちくま新書

自由と責任の哲学へ!
『人が人を罰するということ』はじめに

ひとを責めることは無意味? 責任は近代社会の虚構にすぎない? 神経科学や社会心理学をも巻き込む自由意志をめぐる論争に鋭く切り込み、「人間として生きる」とはどういうことかを問う、山口尚さんの新刊『人が人を罰するということ――自由と責任の哲学入門』(ちくま新書)より序文を公開いたします。

 刑罰をテーマとするある本は次の印象的な問いかけから始まる。

[…]1995年8月、オクラホマ州の受刑者は、死刑執行直前に薬を服用し自殺を試み たが、胃洗浄のおかげで意識を取り戻した。そして予定通りの時刻に執行された。2002年11月に2度の心臓手術を受けた後、翌月に処刑されたイリノイ州の受刑者もいる。我々はなぜ、こんな手の込んだことをするのだろう。犯人の処罰を望む本当の理由は何なのか。(小坂井敏晶『人が人を罰するということ』岩波新書、2011年、i頁)

 ここでは、自ら命を絶とうとした人間を治療によって救命した後で死刑を執行する、また病気で亡くなるかもしれないひとを複数回手術したうえで処刑する、という「手の込んだ」刑罰の実践が紹介されている。なぜここまでして罰を行なうのか。〈罰すること〉の意味は何か。
 みなさんがいまページをめくっている本書もこうした問いへ答えを与えることを目指す。そこでは、罰したり責めたりする実践は私たちにとってどのような意味をもつか、が明らかになるだろう。
 本書の主題は〈責めること〉および〈罰すること〉である。例えば大事な会議に遅刻したひとを私たちは「何をやっているのか」と責める。また盗みや暴行などの罪を犯したひとを私たちは、決して不問にはせず、何かしらの罰に処する。ひとは生活においてさまざまなことを意図し、さまざまなことを行なっているが、ときに自らの行為をかどに責められたり罰せられたりする。こうした責めおよび罰が本書のテーマである。
 だがなぜこれらを主題とするのか。この点はしっかり説明しておきたい。
 現在、《刑罰は無意味だ》と主張されることがある。例えば神経科学の知見にもとづいてこうした主張が行なわれることもある。一例を挙げれば―本書においても後に取り上げられるが―神経科学のある実験から《私たちの身体運動は、私たち自身のコントロールを超えた無意識的な神経プロセスの結果だ》という結論が引き出されたりする。そしてここから、人間は自由な行為主体ではなく、それゆえ自分の行為に責任を負えない、と言われたりする。そしてさらに、人間は何かに責任を負いうる主体ではないので、ひとを罰することは無意味だ、と述べられたりする。要するに、科学的知見にもとづいて《刑罰は無意味だ》と言われることがある、ということだ。
 加えて―これはもっぱら哲学の文脈の話だが―《そもそもひとを責めることは無意味だ》と言われることもある。人間は自然の一部であり、人間の行動は無数の原因から自然法則を通して生じる結果に過ぎない。それゆえ《ひとが自分の行動を自分で選んでいる》というのは一種の思い込みや錯覚のようなものである。じっさいには、人間の一切の行動は自然の因果の産物である。このように論じたうえで「だから、悪いことを行なったひとを責めたとしてもそれは無駄だ」と言われたりする。むしろガミガミ言わずに悪い行動を生む原因を取り去るよう努めるほうがベターだ、ということである。
 このように《刑罰は無意味だ》や《ひとを責めることは無意味だ》と言われることがある。本書はこうした見方へのアンチテーゼである。本論で指摘されるように、決して「罰することや責めることはすべてナンセンスだ」などとは言えない。〈罰すること〉および〈責めること〉は人間の生のうちにしかるべき居場所をもつ。この点を示すことが本書全体の目標である。
 本書の主要な結論のひとつは、「ひとを罰することは無意味だ」と断ずることは間違いだ、というものである。この結論を説得的に提示するため、本書はそこに至る理路を工夫する。以下、本書を読むさいに心に留めておくべき点をふたつ述べたい。
 第一に、上記の結論を導き出すさい、本書は「刑罰」と「罰一般」を区別する。すなわち、「刑罰」は法的に制度化された罰を指すが、「罰一般」はそれ以外も指す。例えば寮の決まりを破ったひとが寮長から〈一週間トイレ掃除〉の罰を科せられることがある。また会社や組合などにおいても、大事な約束を破ったりしたら、何かしらのペナルティがある。そしてこうした罰は必ずしも制度化(例えば前もっての取り決め)を伴わない。押さえるべきは、私たちは日常生活においてしばしば制度化されない仕方でひとを罰する、という点だ。そしてこうした「罰一般」の概念は、「制度的な罰」すなわち「刑罰」とは区別される。
 刑罰と罰一般とを分ける―いったいこの区別の何が重要なのか。本書は必ずしも「刑罰は止めるべきだ」という主張に反対しない。なぜなら、本論でも述べられるように、刑罰という制度にかんしては《これは正当化されないから、廃止しよう》と提案することは決して無意味ではないからである。とはいえ罰一般について同じことは言えない。例えば「罰することすべてを金輪際止めよう」と提言することはナンセンスである。なぜこう言えるかの理由は本論でじっくり説明されるが、いずれによせ本書の指摘を理解するさいには「罰一般/刑罰」の区別をつかんでおくことが不可欠である。
 第二に、本書は《罰することは無意味だとは言えない》と主張するが、その議論はイギリスの現代哲学を代表する一人であるピーター・ストローソンの考え方からインスピレーションを得ている。この哲学者は重要な責任論および刑罰論を提示しており、そのアイデアはこの話題を取り上げるさいにつねに立ち返られるべきものだ。そしてストローソンの議論の精神を正確に提示すること、これも本書の目標のひとつである。
 だが「なぜストローソンか?」と言えば、それはこのひとの考えが的確かつ深遠だという事実に尽きない。この哲学者の立場は公にされてからすでに六〇年以上経つが、その精神をいわば「純化した形で」提示する著作はいまだ存在しない。それゆえ私は本書においてそれをやってみようと考えたわけだ。
 序において述べておきたいことがもうひとつある。
 じつに責任と罰をめぐる哲学的問題は「自由」の問題を巻き込む。それゆえ本書においては〈自由な意志〉や〈自由な選択〉についても複数の角度から論じられるだろう。とはいえ―しっかり明記しておきたいが―本書を読むために自由というテーマの予備知識はいらない。むしろ本書には〈自由の哲学への入門書〉の一面もある。本書では(とくに第Ⅱ部以降で)自由にかんする最も根本的な問題が提示され、それについてどう考えるべきかも説明される。
 現在、日本語で読める〈自由の哲学への入門書〉としては、高崎将平の『そうしないことはありえたか?』(青土社、2021年)がある。これはたいへん優れた入門書であり、自由の哲学に興味をもつすべてのひとに薦めることができる。ただし高崎の作品は自由をめぐる多種多様な問題をバランスよく紹介するという方向性のものであり、ひとつの視角を「尖らせる」という面が少ない(もちろんこれは欠点ではない)。これにたいして私の今回の本は〈責任と罰というひとつの視角から自由の問題を徹底的に掘り下げる〉という意図をもつ。高崎の入門書が〈広い目配り〉を特徴とするとすれば、本書は〈初学者を可能な限り深いところまで連れていくこと〉を目指す。もちろんこの意図が達成されているか否かは読者の判断に委ねられるべきことだが―。
 本書の全体の構成を説明しておこう。本書は3つの部からなる。
 第Ⅰ部は準備である。本書の主張を理解するためには、前もって刑罰および〈罰すること〉についての一定の理解を形成しておく必要がある。それゆえ第Ⅰ部では「刑罰は何のために?」を導きの問いとして制度的な罰について複数の角度から論じる。最終的に「刑罰の意味の多元主義」という立場が提示されるだろう。
 第Ⅱ部は問題提起である。現在、さまざまな科学的成果(例えば神経科学や社会心理学の実験)にもとづいて《人間は自由な選択主体でない》と主張する議論が存在する。そしてここから《人間は自分の行為に責任を負えず、ひとを責めたり罰したりすることはナンセンスだ》と論じられることがある。第Ⅱ部はこうした問題を具体的に提示する。そこでは有名なリベットの実験やミルグラムの実験から出発する議論が紹介されるだろう。
 第Ⅲ部は問題解決である。「はたしてひとを責めたり罰したりすることは無意味なのか」という問いへ本書は「否、無意味ではない」と答える。そのさい、「人間の生の一般的な枠組み」をキーワードとして、《人間の生において責めや罰がどのような位置づけをもつのか》が確認される。そこでの議論は先述のピーター・ストローソンからインスピレーションを得たものであり、この哲学者の考え方の「精神」あるいは「神髄」も明らかになるだろう。ちなみに最終章ではいわゆる「刑罰廃止論」についてどう考えるべきかも考察される。

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