紙子と学校

都心の一等地にあり、帝に仕えるための特殊技芸者を養成する中高一貫の女子校・玉笛女子学園。中等部に入学し寮で同室となった紙子と陽子は、不思議な先輩や先生たちとの交流を通じて成長していく。気鋭の詩人による和風学園ファンタジー、ここに開幕!(カット:鯨庭)

 窟穴彦の母親は、白人であったということしか、父からは聞かされていない。
 窟穴彦が阿多家に養子として引き取られたのは、二歳の時だったという。
「本当の母様と別れて、カイさんと日本へ来た時、俺は泣いていましたか」
「泣いてなどいない。お前は、父様が迎えに来たことを喜んで、にこにこ笑っていたよ」
 窟穴彦は、思春期のある頃から、父親の介彦を名前で呼ぶようになった。幼い頃から自分が養子という立場で、三兄弟の次男におさまっていることは知っていたが、養母があまりにも自分を冷遇するので、幼い頃はよく泣かされていた。母は外出する際、兄と弟だけを連れていく。窟穴彦は家に一人残される。そんな日は、家に仕えている下働きの者たちも、幼い窟穴彦に冷たく当たった。母が「どうしても、愛せません」と言い、父がその言葉に黙り込んでいるのを、ある夜に廊下で聞いたことがあった。窟穴彦は即座に、自分のことを話しているのだと分かった。それから、窟穴彦は父と母を名前で呼ぶようになった。初め、周りの者が息を飲む感じが伝わってきたが、父はそれを許した。拒絶されたら、窟穴彦はその時こそ姿を消すつもりだった。 本棚で埃をかぶっているグリム童話を取り出し、古めかしい挿絵を眺める。赤ずきん、ヘンゼルとグレーテルが迷い込む、無音の森。彼らが通り過ぎる民家の中に、エプロンをかけた本当の母が、今も自分の帰りを待っている気がする。
 前髪も後ろ髪も、切らずに放っておいた頃、窟穴彦の赤い髪の毛は、日の下で金色に光ることがあった。柔らかな毛先は、わずかに渦を巻いていた。鼻と頬にそばかすができると、ますます日本人離れした容姿になった。光り輝く窟穴彦の容姿を、阿多の家の人間は遠目に苦々しく眺めている。使用人は希望を聞く時、次男である窟穴彦をとばして、二歳年下の弟の鈴彦のもとへ行く。目に触れることすら、忌まわしいようだ。
 窟穴彦はバリカンを持ち出し、父を真似て、自分で髪を短く刈った。庭に散らばった髪を掴んで、飼い犬の糞を捨てる屑籠の中へ隠すように捨てた。鏡を見る。赤毛の根本は、暗い色をしていた。短い髪は、兄弟たちの持つ黒い直毛に似ている気がして、気に入った。
 母や使用人は窟穴彦とまともに口を聞こうとしなかったが、弟の鈴彦は、窟穴彦が遊びに出かけようとする時は、犬のようについて回った。おとなしい鈴彦は、十以上も歳の離れた長兄よりも、窟穴彦と気が合ったのだ。
 そして、あの日が訪れた。窟穴彦が十二歳、鈴彦が十歳の時のことだ。
「山は良い」
 そう窟穴彦が呟くと、鈴彦は笑った。
「だからいつも、山にいるんだね」
 鈴彦のその言葉に、窟穴彦は黙っている。
「母さまは、窟穴彦を『山男』だと言って笑っていたよ」
 幼い鈴彦の声に、悪気はない。鈴彦は鈴彦なりに、母が兄に無関心ではないことを伝えようとしている。
 家にいると、水の上に浮かぶ油のように、自分の身の置き場所が分からなくなる。白く大きな体は場所をとる。屋敷に棲まうねずみのように、灰色の小さな体をしていたら、家の中にいても目立たないかもしれないと、本気で思うことがある。自分の体は、どこまでも家人の目について仕方がないようだ。それでいて無視をされると、息苦しくてたまらなくなる。
 自然は、よそ者を拒絶しない。朝から晩まで身を置いて、苦情を言わないのは山や森くらいだ。昼間でも、森の中は暗い。昼間の闇は優しい。自分の体を照り輝かせる日の下より、優しく包み隠す闇の方が、窟穴彦は安心していられる。
 窟穴彦、鈴彦の住む阿多家は、屋敷の中に「鷄(とり)の道」と呼ばれる、宮中に繋がる私的な地下通路を持っている。「犬吠え」という声で伝令する隼人一族ならば、鷄より犬の方が合っているのではないかと思う。そんな小さな疑問を口にした時、父はこう言った。
「闘鶏という遊びがあるように、鳥は戦う生き物の象徴なのだ。朝に鳴き、夜の闇を追い払う役割は、声で祓い、伝令する隼人と同じ。また、遺体を海でなくした時、舟に鶏を乗せて、どこに沈んでいるのか、探すこともある。舟の上で鶏が鳴くと、その下で遺体が見つかるのだ。不思議な話だが、俺も、実際にそれを見たことがある。鶏は、時だけでなく、異様なモノの到来を知らせるのだとな」
 父が熱っぽく話した。そういえば、『隼人』の「隼(はやぶさ)」という字も、鳥のことだ。家では寡黙な父は、仕事のことになると、いつまでも話し続ける。阿多の家は嫌いだが、父の介彦と、仕事の話をするのは楽しい。
 その日窟穴彦と鈴彦は、鷄の道を通って宮中へ遊びに出かけた。鷄の道は、宮廷に敷設された初等科に通う時以外、使用することを禁じられていたが、全力で走れば、十分くらいで通り抜けることができる。誰にも見つからないように、鷄の道を走り抜けること自体が遊びの始まりなのだ。通り抜ける時間が、日に日に縮まっていくことも楽しい。
 鶏の道は、太平洋戦争の折に、陸軍が中心となって作り上げたものだ。伝統的な石詰の職人が関わっていないために、窟穴彦から見ても石詰がひどく稚拙だと感じる場所がある。ぬかるみやすく、虫獣の死骸がさらに虫獣を呼び寄せるような代物だったこの道は、数年前に介彦の号令により、セメントで固められた。古めかしい吊り電球は取り払われ、長細い白色蛍光灯が取り付けられた。
 鷄の道の入り口は、岩畳の上に、何気なく巨石を置いたような格好をしている。巨石と岩畳の隙間に、体を滑り込ませる。監視している人間がいないか、あたりを注意深く見回してから、先に鈴彦を入れてやる。それから、窟穴彦が中へ入る。外から見れば岩は灰色だが、中に入れば、岩は土の色をしている。大きな人が合わせた掌の隙間のような、平べったい空間を、鈴彦と窟穴彦は体を平伏させながら通り抜ける。
 真っ黒な丸い穴の中へ身を投じると、そこから道らしきものが始まる。
 鈴彦を先に走らせる。二分ほどおいてから、窟穴彦も走り出す。二人の靴音が、洞穴で反響する。獣の喘ぎ声に似た二人の声が、笑い声に変わる。窟穴彦が鈴彦を追い抜く。可笑しくてたまらない。笑いに身を委ねれば、そのまま倒れてしまいそうだ。外見に似たところはないが、二人の声は似ている。前を走っているのは自分なのか、鈴彦なのか、分からなくなる瞬間が訪れる。
鷄の道を抜け、地下道から顔を出すと、五月の青い草のにおいがした。風が吹く。柔らかな日差しが窟穴彦の髪を輝かせた。刃のように鋭く光った瞬間、無意識に髪をなでつけた。鈴彦が遅れて地下道から這い出し、窟穴彦の背を叩いた。

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