紙子と学校

都心の一等地にあり、帝に仕えるための特殊技芸者を養成する中高一貫の女子校・玉笛女子学園。中等部に入学し寮で同室となった紙子と陽子は、不思議な先輩や先生たちとの交流を通じて成長していく。気鋭の詩人による和風学園ファンタジー、ここに開幕!(カット:鯨庭)

 鷄の道は、琴山と呼ばれる丘のふもとに出る。目の前には大山、烏山がそびえ、右手には鎮守の森が広がる。この森のずっと向こうに、宮廷の姫君たちが集う玉笛の敷地があるという。美しい女がいるなら、いつか見てみたいとも思うが、その日は別の目的があった。
「八瀬童子。あいつらは、夜しか動いていないんじゃないか」
鈴彦は不安そうに呟く。五月の青空の下、風にそよぐ烏山は美しく見えた。窟穴彦と鈴彦は、「八瀬童子」と呼ばれる集団を見物しに、その日宮中を訪れたのだった。
宮中で殉職した人間たちを烏山へと移送する、八瀬童子という一族は、窟穴彦にとっても気になる存在だ。介彦はじめ隼人の男たちの会話の中に、「八瀬童子」の名はよく出てくる。
 現帝の護衛から、帝の墓の警備まで受け持つ隼人の待遇が、千年も前から一向に改善しないのは、この八瀬童子の存在が深く関わっているのだと、隼人一族は考えている。帝が逝去した際、その体を陵へと運ぶ八瀬童子は、隼人が受け持つ帝陵の警備を、やがて手中に収めようとしているらしい。ひどく憎々しげに、隼人連中は八瀬童子の名を語る。
「それを確かめに行くんだろう。死体を運ぶところを、俺も見てみたい」
 怖気づいたように、鈴彦は俯いた。窟穴彦は烏山を見上げた。
「角(つの)が生えていると言うが、本当だろうか。どちらにしろ、化け物みたいな顔をしているだろう。死人を毎日触るなんて、穢らわしい仕事をしている連中は、そういう顔になるものだ」
 鈴彦は息をのんだ。言いながら、窟穴彦も体が冷えてくる感じがあった。
 そのまままっすぐに烏山へ登ると、古い帝の陵を警備する隼人連中に見つかってしまう。位の低い隼人連中なので、別に構うことはないが、こちらの企みを知られてしまうのはつまらない。
 八瀬童子の屋敷は、いま窟穴彦、鈴彦のいる場所から見て、山の反対側にある。二人は川沿いを歩き、隼人連中のいる陵を避け、烏山のふもとを回って向かうことにした。
 小川が小石をさらう音が甲高く鳴っていた。やがて、木に結んだ赤い布が見えた。先日、夜の出仕に同行した際、八瀬童子の屋敷の灯りが見えたところで、目印に結んでおいたのだ。急な獣道を、二人は無我夢中で進んだ。
 平坦な地が現れた。そこだけ木々が開けて、宮中を上から見下ろすことができた。現帝の坐す本殿は、古めかしい銅瓦が屋根に敷かれている。汗をかいたように、銅瓦に白い筋が垂れているのは、昨今の酸性雨の影響だという。細かな銅の鱗に覆われた宮殿を、二人並んでじっと眺めていた。
(大人たちは、まるで大きな魚の腹の中にいるみたいだ)
 比較的現代的な低層ビルもある。ここには、宮殿に足を踏み入れることができない身分の者が詰めているのだろう。
「窟穴彦」
 鈴彦の声に振り返ると、鈴彦は岩壁に空いた穴の前にいた。鈴彦の腰ほどの高さしかない、小さな洞穴だ。まるで粘土に木を挿しこんで引き抜いたような、柔らかな曲線を描いている。丸の中には、漆黒の闇がある。
「八瀬童子たちのすみかだろうか」
 鈴彦に促され、窟穴彦は穴ぐらを覗き込んだ。とうの昔に打ち捨てられた、古い防空壕の跡ではないかと思ったが、顔を差し入れた途端、黒い水に浸ったように、息が詰まった。
(何も見えない)
 目を瞑りながら瞬きを繰り返すような、奇妙な気分になる。
 その時、不思議な音を聞いた。金属の鱗が擦れ合うような音。
「ちゃりちゃり。ちゃりちゃり」
 穴の奥から、音は確かに近づいてくる。ただ、何も見えてこない。ただ圧倒的な黒い闇が、眼前にあるだけだ。
 目を凝らすと、空洞の奥の壁が見えた。つるりと、濡れた土壁。
「これは」
 そう窟穴彦が小さく呟いた時、その土壁が、もぐらに似た獰猛な素早さで、入り口に手をかける二人に迫ってきていることに気がついた。体を反らせようとした時には、すでに指先に何か冷たいものが触れた感覚があった。鳥肌がたち、反射的に手を離した。受け身もとれずに後ろへ倒れ込む。小さな呻き声が出た。
 見上げると、奇妙な男が目の前に立っていた。
 赤錆のついた鎧兜に身を包み、憤怒の表情をした黒塗りの木面で顔を覆っている。黒い木面の眼(まなこ)からのぞく、白玉のような目玉と目が合った。銅像のように大きな身体を持つ男だが、涙を流している。涙は透明で、だらだらと丸い白目のふちから垂れている。
 白目は少しも赤くならない。悲しくて泣いているのではないのだ。
 窟穴彦が男の目を観察していると、男は大太刀を振り薙いだ。
 反射的に、体を土の上に伏せた。
 草花の上に赤い血が散乱している。深い緑の上でも、血の色が分かるほどに血溜まりとなっている。窟穴彦はとっさに自分の身体を探った。自分の血ではない。振り返ると、弟が地に突っ伏していた。
「スズ」
 鈴彦の、両腕の先がなくなっていた。足下に、鈴彦の白い靴が散らばっていると思ったのは、腕の先だった。芋虫のように体を丸め、切られた腕の先をかばっている。
 窟穴彦は刀を抜いた。刃が鞘に擦れて冷たい音を立てる。男は、まるで窟穴彦が刀を抜くのを待っていたかのように、軍刀の重みに揺らぐ窟穴彦の様子を眺めていた。
(敵うわけがない)
 真剣での試合は、まだ父から許されたことがない。実際に肌を切る刃と対峙すると、悪寒で足も手も震え萎えてしまう。
 「スズ、逃げろ」
 返答はない。両腕を失った鈴彦が、遠くまで走り去れる訳がない。生き残るには、自分が鈴彦を抱えて走り去るほかない。
 男は刃先を鋭く下へ振り、刀についた血を地面に払った。慣れた手つきだった。窟穴彦を見据え、刀を構えた。
 その奇妙な姿勢に、思わず目を見張った。両手で刀の柄を高く引き寄せ、切先を正面に向けている。柄を顔のあたりまで高く引き寄せる姿勢は、以前他流試合でも見たことがある。関ヶ原の戦い以前の、合戦で培われた流派は、後方からの敵襲を抑える目的で、柄を高く引き寄せる。ただし、切先は後ろを向いているものだ。その男は切先を、正面にいる窟穴彦に向けている。
 刀も奇妙な形状をしている。
(剣だ)
 男が手にしているのは、湾曲に反った片刃の日本刀ではなく、真っ直ぐな両刃の剣だった。よくよく観察すれば、男が身にまとう鎧は戦国時代の合戦で使われた軽やかな様相ではなく、どちらかといえば、古墳時代に陵墓に置かれた埴輪が身につけていたような、重たげな鎧だ。刀が今の日本刀の形になったのは、平安時代以降。男が持っているのは、それよりも前の形状の剣だ。
 片刃の日本刀は「切る」ことを第一目的としている。両刃の剣は「突く」「叩く」に特化した形状なのだと、介彦が言うのを聞いたことがあった。
 窟穴彦が足を踏み出した時、鎧の男の目に喜色が広がった。罠にかかろうとする自分の体を、自分でも止めることができない。
「伏せろ」
 上から、若い男の声がした。鎧の男が上を仰いだ。その瞬間、巨大な鳥の影が、前を遮った。窟穴彦は身をよじって草むらへと倒れ込んだ。
 巨大な剣が、窟穴彦の足先へと落ちた。それから足に広がる生温かな感覚に、慌てて体を起こし眺めてみると、窟穴彦の下半身を染めていたのは夥しいほどの血だった。
 鎧兜の隙間、わずかに見える首の部分を、白装束を身にまとった青年の反りの深い刀が、赤い掻き傷を残していた。鎧の男は、噴水のように血が溢れ出る喉もとを押さえながら、元の穴ぐらへと戻って行った。
「無事か」
 手を差し出した青年の、気妙な身なりに目を奪われる。山伏が着る白装束に似ているが、白袴の裾は広い。黒い頭巾から覗くのは、目元だけだ。黒い頭巾は胸のあたりまで垂れている。

 

 青年の手を掴んで立ちあがる。白く滑らかな手をしているが、手の内側、指や掌の皮はやすりのように硬い。父や兄の手に似ている。まぎれもなく、武人の手の感触だった。
 鈴彦に駆け寄ると、鈴彦は目を閉じて、荒い呼吸を繰り返していた。
(よかった、まだ生きている)
 意識が朦朧としている。窟穴彦の呼びかけにも反応することができない。残された腕に屈折がある。肘は残され、手首の先を切られたようだ。
 鈴彦を前に抱えて山を降りようとして、黒い頭巾の男に呼び止められた。
「落ちた手を、持っていけ。まだ、付くはずだ。屋敷がすぐ近くにある。氷を持って来させる。おい、都志見(としみ)」
 青年の呼びかけに姿を現したのは、鈴彦と年も変わらないであろう華奢な背格好の少年だった。深い紺色の着物を着ているが、黒い頭巾はかぶっていない。利発そうな瞳が、なんとなく烏を思わせる。
 それから黒頭巾の青年は、茶色の小瓶を懐から取り出した。蓋には朱書きされた札が貼り付けられている。
 札を破ると、中から肌色の泥のようなものが溢れ出て、鈴彦の傷口を覆った。
 産穴彦が覗き込むと、傷口の真ん中についた小さな瞳と目が合った。鈴彦の傷口には、小さな人間の顔が貼り付いていた。思わずのけぞった。
「『人面瘡(じんめんそう)』と言って、人の体に他人の顔が貼り付く呪いだ。一時的な止血に使える。俺たちは時々生存者を見つけることもあるから、知り合いの陰陽師に頼んで、こうして分けてもらっている」
 茶色の小瓶を振る。
 鈴彦の傷口に貼り付いた、蜜柑ほどの大きさの顔に、眉毛やまつ毛はない。よく見なければ、顔だとも分からない。傷が突出しただけのようにも見える。顔の端から噴き出る血を、人面瘡は顔をしかめながら、舌と唇を動かして舐めとる。やがて血はぴたりと止まった。静かになると、小さな顔は満腹になったように柔らかな瞬きをした。
「医師に診せる時は、顔をつまみ取れ。指でつまめば、すぐ外れる。彼には痛みもない」
 都志見と呼ばれた少年が、氷が入ったビニル袋を片手に降りてきた。
 窟穴彦は、少年の動きに目を丸くした。少年は、まるで野辺の石を拾い集めているかのように、平静な表情で、鈴彦の手を拾い集める。弟の手とはいえ、人体の一部を拾い集める作業だ。窟穴彦の体は震えが止まらない。
(怖くないのか?)
 自分よりずっと体も小さい少年が、顔色ひとつ変えずに寸断された体の一部を拾い集めている。自分があのビニル袋を冷静に受け取ることができるのかすら不安だった。
 背中を叩かれ、ハッとした。黒頭巾の青年が、窟穴彦に問いかける。
「ここから、君の屋敷に戻るまで、どれくらいかかる?」
「二十分くらい」
「宮殿の医務室より、そちらの方が近いかもしれない。前に抱えていては、走れないだろう。背負った方がいい。ほら」
 青年は腰に巻いていた白帯を解き、窟穴彦の背に鈴彦を高くくくりつけた。重心が高くなり、かなり動きやすくなったが、結び目が腹に食い込んで、息が苦しい。目の前が白黒する。体の震えも止まらない。指先が冷えて、感覚がない。肩を上下させている窟穴彦に気づき、黒頭巾の男は屈んで、窟穴彦と視線を合わせた。落ち着いた様子から、かなり歳が離れているのかと思ったが、目の輝きが彼の若さを象徴していた。
「大丈夫だ、大丈夫」
 黒頭巾の男の言葉に、窟穴彦は無我夢中で頷いた。
 少し呼吸をおいてから、窟穴彦は問いかけた。
「あの鎧の男が、八瀬童子だろうか」
「は?」
「弟は、八瀬童子に切られたのか」
「あれは、八瀬童子ではない。八瀬童子は、俺のことだ」
 窟穴彦は目を見開き、黒頭巾の男から距離をとった。
(冗談を言っているのか?) 
 頭巾からわずかにのぞく彼の表情は、幼い自分をからかおうとしているようには見えない。
(こんなに美しい人が、八瀬童子? 鬼には見えないじゃないか)
 黒頭巾の下に隠された、鬼の角を想像するしていると、かすかに笑ったようだった。
「その顔。知らなかったのか。烏山でこの装束を着た者を見れば、名乗らずとも分かるものだ。君は、体は大きいが、まだ元服前なんだな」
 体が大きいことを指摘され、窟穴彦はカッとなった。
「清らかな宮廷に、お前らのような穢らわしい者があるから、こんな災いが起きるんだ」
 黒頭巾の男は、激昂することもなく、窟穴彦の瞳を眺めていた。
「浄と穢(え)は不離」
「なんだって」
 窟穴彦は乱暴に睨み返した。黒頭巾の男はなおも続けた。
「浄と穢は離れず。清らかさと穢れは、常に表裏一体だ。やがて宮中で仕事をするならば、この言葉を覚えておくといい。『浄と穢は不離』。俺らの国は神々しくて、おぞましいのだ」
 穏やかな声。聞き分けのない子どもを優しくいなす態度に、窟穴彦は言葉を失ってしまった。
 背中を叩かれて、振り向く。少年から、鈴彦の手が入ったビニル袋を差し出され、無言のうちに受け取った。
「広兄(ひろにい)が助けなかったら、お前も死んでたんだからな。その刀、隼人一族のだろう。隼人は礼儀も知らないのか」
「都志見」
 広兄と呼ばれた黒頭巾の男は、躊躇なく都志見に拳骨を落とした。
「いいから、早く行け。またどこかで会ったら、その時に話そう」
 窟穴彦は振り返らず、鷄の道に向かって駆け出した。
(つづく)

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