愛のある批評

「天才的なアイドル様」に寄せて

2023年12月31日の紅白歌合戦で、YOASOBI「アイドル」のパフォーマンスが大きな反響を呼びました。その直前に初の批評集『女は見えない』を上梓した西村紗知さんは、この演出ではじめて「アイドル」という曲が理解できたと言います。芸能界に急激な変化が訪れるなかで求められる、真の「天才的なアイドル様」とは誰なのか? ここ数カ月のニュースを思い出しつつお読みください。

3.「小説を音楽にする」こと
 J-POPのアーティストだからグローバルなダンスミュージック制作とは相容れないだとか、そういうことを思うには筆者の聴取経験が明らかに不足しているのであるし、反証となる例はたくさんあるだろう。ただ、そもそも、踊っているアイドルを主題にした曲だからといって、この曲が実際の生身のアイドルが踊るのに適しているかどうかは話が別ではないか、とは思う。
 何より、紅白の演出は「小説を音楽にする」というYOASOBIのコンセプトに大いにかかわるところがあったのではないか。
 「小説を音楽にする」とは、ある面では作曲者とボーカルによる「主題化」の技法であろう。小説などの題材から主題を取り出して、メッセージ性を再構成することを、そこではやっているはずである。それは一種の解釈行為でもあるだろうし、作品に対する価値判断でもあるだろう。そこには、作品から汲み取られたメッセージだけではなく、作品に対するYOASOBIからのメッセージも含まれているはずだ。「祝福」のMVを担当した映像ディレクター・依田伸隆の談話には次のようにある。

『水星の魔女』の小林(寛)監督やプロデューサーさんからは、「今回、ガンダムはある種の呪いとして存在する物語なんです」と伺ったと思ったら、YOASOBIさんからは「祝福」というタイトルの楽曲が到着する。「呪」と「祝」。「こんな面白いクリエイターたちと一緒に仕事ができるなんて楽しいに決まってる!」と思いました。(『別冊カドカワ 総力特集 YOASOBI』2023年、KADOKAWA、112頁)

 題材の側の意図を汲み取ると、このように、ある意味で反対方向へ進むこともあるだろう。

 どのみち「主題化」を成功させるためには、まず第一に曲自体が、ひとつの独立した表現として、自己完結していなくてはならないはずだ。それは、聞く側の想像力を前提としているところもあるだろう。いかにしてその音楽が現実を取り入れているのかは、聞いている側が想像力で補って聞くものだろうから。インターメディア的な取り組みを多くやってきた彼らだが、その点インターメディア一辺倒ではありえないだろうし、言ってみれば「双方向コミュニケーション性」とでもいうのか、ここに彼らのクリエイティビティの勘所があるのではないかと思う。
 YOASOBIの作品には、「元ネタ」に対する独自の緊張感が宿っている。だが、紅白において、「元ネタ」となるであろうところの素材はそのまま提示されていて、そうなると、彼らのクリエイティビティにとって方向性は真逆だったのではないか。演出にも独自の緊張感はあっただろう。だがそれは、鑑賞者の解釈への欲求を積極的に取り入れようとしたがために生じていた緊張感だったと思えば、少し種類が違っていたのではないかとも思う。双方向コミュニケーション的な取り組みにおいては、それが制作に携わる人々のうちのどちらから発せられたメッセージなのか判断がつかないという点で、曖昧になった部分が残されるが、曖昧なものがそのままになっていることに緊張感の源がある。他方、きわめて現実的に曲の内容が実現化されたら、曲に備わる双方向コミュニケーション性はあまり強調されるものとはならない。
 筆者が関心をもっているのは、他のメディアが干渉できないところの、曲の内部の緊張感の方である。曲の内部の緊張感とは、例えば、寸分違わず細かく音を当てる音程感覚や、レイヤーを重ねるように付け加えられているパート同士の絡まり、などから感じられるもののことだ。
 そもそも「小説を音楽にする」彼らの音楽は、さながら小説のごとく「散文的」なところが多いように聞こえる。ファーストEP『THE BOOK』を聞くと特にその印象を強くもつのだが、言葉の方にもともとある構造を生かした音作りであるからこそ、そうなのだろうという気がする。
 その散文性とは第一にメロディの特性だ。Ayaseの書くメロディには、多くの場合、ひとフレーズの間隔が広く、かつ反復の構造から比較的自由なところがみられるように思う。反復から自由な書法を実現できるのは、ボーカルのikuraのボーカリゼーションの特質ゆえのことでもあるだろう。アーティキュレーションが正確で、音域によって声質のばらつきもあまりなく、アタックに抵抗が少なく声を発した瞬間からそのまま真っ直ぐ延びていく。その特性は、ボーカルというよりもはや、運指の難しさを感じさせない管楽器奏者のようなインストゥルメンタルな部類のもののようで、声楽特有の雑味があまりない。
散文的な音楽は、ともすると曲全体の緊張感が失われてしまいがちだ。メロディが楽式にゆるやかに拘束されてしまって、聞いている印象としては少し間延びした感じを避けられない部分が多いのではないかと思う。J-POPの型通りの楽式である、Aメロ―Bメロ―サビという構成に、散文的に書かれたメロディがそれぞれ区分けされて、適宜付け加えられた楽器パートにより、場合によっては近親調以外への突飛な転調を伴って、盛り上がりが演出されている、と感じられることもある。散文的なメロディを主軸に曲をつくっていくなら、間延びせずにフックをもたせようとすれば、そのときどきにボーカルのメロディにあてがわれた対旋律の役割が重要となることだろう。「夜に駆ける」のボーカルとピアノロールとの絡み合いを聞くとそういう気がする。主旋律と対旋律と、その他諸々の楽器パートとの間で、音程的にぶつかってはいないものの役割上の主従関係がそれほどはっきりしていないところに、この曲の緊張感が宿っている。

 散文的なメロディは、一人称による独白や三人称による状況の記述には適しているかもしれないが、パートごとの役割を明確にし、主従関係を設け、それらの掛け合いにより音楽のカタルシスを生み出すのにはそれほど適していないだろう。「HEART BEAT」はゴスペル風の体裁の曲だが、この形式の本来もつ力をそのままに宿すものかどうかは微妙である。「合唱付き」の曲としては「群青」の方がよく聞こえる。合唱からソロへの受け渡し、景色が一気に開けるような音楽の切り替わりが美しい。合唱隊の役割がikuraの歌唱に対し補助的な役割を担うに留まっているからこそ、実現される美しさではないかと思う。

 制作に着手した順は不明だが、発表されたものから順に聞いていくと、YOASOBIの曲のうちに、徐々に韻文と句法が獲得されていったのを確認できるように思う。「祝福」「アイドル」「勇者」では、コントラストをつくること、反復により気分を盛り上げること、この二つのことに注力していることがうかがえる。「祝福」の場合、冒頭から聞いていくと、3つ音からなる動機の反復で構成される箇所、比較的音価の長い音で構成される箇所、など、楽節ごとにまずもってリズムに関して性格の異なるメロディが配置され、コントラストをつくりつつ曲が進行していくのがわかる。実のところ、彼らの創作のうちアニメの主題歌としてつくられたものの方が、音楽のロジック自体で音楽を聞かせる技法がたくさんあることに気づかされる。

 「アイドル」もまた、全体として散文的な性格から遠い。基本的に4行でひとまとまりの構造であり、1行目、2行目は同型にし、3行目に少し違うことをして4行目でその節をまとめる、という定石をしっかり踏まえた構造をしている。最初の歌い出しとのところでいうと、「抜けてるとこさえ彼女のエリア」だけ頭に休符がない。そして、4行目でなく5行目に「天才的なアイドル様」という曲のタイトルコールに相応しいフレーズが登場するため、少し意表を突いて曲の主題を印象付けることに成功しているのだと思う。
 それまでのYOASOBIの曲にあった散文的なメロディは、Bメロの独白「誰かを好きになることなんて 私分からなくてさ」からサビにかけて登場している。「アイドル」という歌詞のところにこの曲の中での一番高い音があてがわれていて、音程感覚の広いメロディはその最高音まで駆け上がる動性をもっているから、間延びした印象を与えることがない。サビの後半の4行でそこまでの内容が一旦まとめられて、きちんと展開に区切りがついている。
 こういう具合に、彫琢されたロジックに「アイドル」という曲の優れた点が認められるのではないだろうか。彼らのシグネチャーである散文的な書法を最大限生かす方法が、まさにこの曲の中に提示されている。だからこそ、これは彼らのキャリアにとっても重要な作品となったことだろう。メディアミックスとしての成功だけが重要なのではないと思う。

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