単行本

江國さんのように読みたくなる
『読んでばっか』(江國香織)書評

絵本、童話、小説、詩、エッセイ、そして海外ミステリーまで、とにかく「読んでばっか」の江國ワールド。その魅力の源泉はなんだろう。

 江國香織さんはわたしと誕生日が二日違いだ。生まれたのは東京オリンピックのあった年。星座も同じ、おひつじ座。出生地も、10キロも離れていないのではないかと思われる。
 このことが、人生のある時期、精神安定剤かお守りのような効果を持った。最初の小説を書いて、それを出版社に持ち込み、はかばかしい返事を得られずにいたころのことだ。
 あの江國香織さんと、生まれた場所も日もかなり近いということは、辿る運命にも近いものがあるのではなかろうか。
 少なくとも、一冊の本が出せるくらいには、似たところがあってもよくないか。同じ星のもとに生まれたものとして。
 ただの頓馬な思い込みだが、しかし、ついつい、ご迷惑を顧みず、同じ星、同じ星、と思ってしまうところがいまだにあって、今回、江國さんの書評集を読みながら、まさに、わー、二日違いだけのことはある! と驚きつつ膝を打ってしまった。
『モペットちゃんのおはなし』である。
「名作の多いピーターラビットシリーズのなかでも、ピカいちの完成度なのだ。余分なものが何もなく、たりないものも、何もない。何度読んでも笑ってしまう」(完全無欠な絵本――ビアトリクス・ポター『モペットちゃんのおはなし』)。こんな、自分が書いたのかと思うような文章にお目にかかれるとは! 
 福音館書店から小さな絵本シリーズが刊行されたのは一九七一年のことで、三巻セットになった箱入り本の、第一集、第二集がまず発売され、『モペットちゃんのおはなし』は、第二集に収まっていた。もちろん、全部おもしろいに決まっているけれど、モペットちゃんは破格。きれであたまをしばるモペットちゃん、後ろ向きのモペットちゃん、きれのあなからねずみをみるモペットちゃん。ああ、すばらしすぎる! 五〇年くらい同じことを思っていたなんて、やはり、同じ星のもとに!
 江國さんの書評する本は、絵本、童話、小説、詩、エッセイと多岐にわたるが、海外文学の多さは特徴的かもしれない。エッセイの中でしばしば言及されるのが、子ども時代の、本の中に全身浸りこむような幸福な読書体験なのだが、海外児童文学を溺愛した少女時代の延長に、翻訳書の世界があったのではないかと想像した。
 江國さんの選書と書評には定評があり、わたし自身、江國さんがおもしろいというものはおもしろいと、常日頃から思っている。今回、その理由の一端を突き止めた気がした。江國さんは無類の文章好きなのだ。
 須賀敦子さんの文章を「秘密の場所を教えてくれるのに、息を弾ませて幸福そうに、誇らしそうに、駆けだしてしまった少女みたい」と評し、金井美恵子さんの『昔のミセス』を読みながら「美しい無駄をふんだんに盛り込んだ文章は、ごくごく飲みたいくらいおもしろい」と言う。「無駄という言い方は誤解を生むかもしれないのでつけ加えると、ふっくらしたもの、おかしみのあるもの、色や匂いや手ざわりに満ちたもの、は、世間では大抵無駄とされている」が、もちろんここで「無駄」は大賛辞なのだ。「読み始めて、ひとたび中に入りこむと、でてきたくなくなる。小説の中があまりにも快適で愉快なので、つい長居をしてしまう。先が知りたくて読むというより、そこにとどまっていたくて読」(バーバラ・ピム『よくできた女』)んだり、イアン・マキューアンの小説の、「惜しげもなくふるまわれる言葉の甘露だし、熱のあるときにしゃぶる氷みたい」な文章「技術」に感嘆したりする。
 大の「庄野潤三」ファンでもある江國さんの、「もっともっと、と、ほとんどせつなくなってしまう」ほどの、庄野文学へののめり込みも、もちろんその文章世界ゆえだ。
 江國さんの書評を読んでいると、本を読みたくなるだけでなく、江國さんのように読みたくなる。しばしば身体的な快感として語られるその読書体験じたいを真似したくなる。