資本主義の〈その先〉に

第12回 資本主義的主体 part1
1 負債へと差し向けられた存在

資本家と労働者

 さて、すると、われわれが問うべきことはこうだ。資本主義のもとで、どのようにして負債が永続化したのか。どのようにして、消えない負債を課せられているかのような意識をもち、またそのような者として振る舞う主体たちが形成されたのか。このような問いに答えることは、資本主義の起源を探究することでもある。
 この問いに答える前に、しかし、探究の焦点をどこに合わせるべきかを検討しておこう。先に、ベンジャミン・フランクリンこそまさに、消えない債務を負っている者として行動している、と述べた。このことを次のように言い換えることもできる。フランクリンは、不断に投資し続けているのだ、と。何に投資しているのか。自分自身に、である。自分自身に投資する資本家というイメージが、ヴェーバーの研究の中心にある。
 ヴェーバーとは別のところ、逆のところに目を着けたのが、マルクスである。マルクスによれば、二重の意味で自由な労働者が生まれることが、資本主義の条件である。「二重の意味で」とは、第一に、奴隷ではなく、(労働力の所有者として)自由に契約できる主体ということであり、第二に、生産手段をもたない──生産手段から自由な──主体ということである。生産手段の所有者であるところの資本家階級と、生産手段をもたず、純粋な労働力しか売るべきものをもたない労働者階級が分化したとき、資本主義が始まる。マルクスは、資本家階級による労働者階級の「搾取」によって、「剰余価値」の発生を説明した。
 ヴェーバーの像とマルクスの像、つまり資本家を典型とする説明と労働者の方に照準した説明、どちらが資本主義の本質を捉えるのに適しているのか。マルクスのように説明するためには、資本主義の歴史的起源に、いわゆる「本源的蓄積」があった、と考えなくてはならない。本源的蓄積とは、今しがた述べたこと、つまり何らかの意味での生産手段になる財を蓄積している者と、生産手段をまったく持たない者との間の分裂のことである。この分裂自体は、資本主義的なメカニズムによっては説明できない。それは、資本主義に外在する権力や暴力によって生み出された、と考えなくてはならない。資本主義に先立って本源的な蓄積があり、それが、資本主義が持続する全期間において、残響のような痕跡を留めている、というわけだ。
 しかし、資本主義が成立する直前に、あるいはその初期に、本源的蓄積のようなことが起きていたとしても、資本主義が展開しているときに常にすでに、それが効果を及ぼしていると解釈するならば、本源的蓄積は、「資本主義」という現象についての説明に一貫性を与えるための、神話的な追補のようなものだと見なさざるをえない。つまり、本源的蓄積は、経験的・歴史的事実というより、説明の空白部分を埋めるための幻想のようなものではないか、との疑いがかかるのだ。
 だが、階級的な格差あるいは階級的な搾取のような現象が、資本主義に見出されることも事実である。われわれは、連載第1回で、ピケティの、評判になった研究を引用した。ピケティのデータが示しているように、格差が一定の水準に留まっていたり、縮小したりするのは、資本主義の例外的な期間(大戦や恐慌があったとき)だけである。資本主義には、経済的な格差(資産や所得の格差)を拡大させていく強い傾向がある。とすれば、やはり、ある種の搾取があると見なさなくてはならない。
 さて、こうしたことを考慮に入れれば、結局、次のような見通しをもつのが適当だ。すなわち、真実は、ヴェーバーの像とマルクスの像とが交叉するところにあるのだ、と。確かに、搾取が、階級的な搾取がある。しかし、それは、生産手段を所有する資本家と純粋に労働力しかもたない労働者との間で生じるわけではない。搾取は、二種類の広義の資本家の間で生じているのだ。ここで、資本家というのは、常に投資し続けている者、したがって返せない負債に追い立てられているかのように振る舞っている者のことである。いわゆる労働者も、一種の資本家である。彼または彼女は、労働力としての自分の価値を高めるために、不断に、自分自身に投資し続けなくてはならないからだ。

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