妄想古典教室

第十回 失われた物語を求めて

『古事記』が語る神功皇后
 彫像が物語を生み出す動きがあったとして、肝心の像が失われてしまったケースもある。反対に彫像だけが残って、付随する物語が失われてしまうこともある。失われたものを見いだすには、大いなる妄想力が発揮されねばならない。以下、失われた物語を求めて、神功皇后の物語を辿り直していきたい。
 第五回で紹介した神功皇后の物語は、『古事記』『日本書紀』をもととして、八幡信仰に取り込まれていった。八幡神という神は『古事記』『日本書紀』には出てこないから、これはのちに形成されたものである。とくに中世に元寇の脅威にさらされて、神功皇后の海を越えて新羅を帰伏させた物語は、異国調伏の物語として再構成される。さらにまた、この中世版の神功皇后説話は、東アジアの侵略と植民地支配に利用されることとなり、朝鮮半島への侵略の根拠付けとされて、とりわけ問題含みのものとなる。神功皇后の海の女神としての信仰は一方で確かにあったものの、一時はなかなかに物騒な物語でもあったのである。そのような剣呑な物語への変容には、失われた物語が含まれていることに一因があるのではないか。その失われた物語に迫るために、まずは『古事記』から順に物語の変転をみていこう。

 『日本書紀』の神功皇后像を『古事記』のそれと比較してみると、『日本書紀』でようやく海の女神らしさを発揮していることに気づく。それに対して『古事記』の伝承は、ほとんど同じ話を語っていながら、まったく異なる神功皇后像を描き出している。『古事記』にはどのように書かれていたのか、確認しておこう。
 『古事記』において、神功皇后こと息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)は、まずもって神をよせる巫女なのである。神は皇后に憑依して託宣する。仲哀天皇が熊襲国を討つにあたって天皇が琴を弾いて、建内宿禰大臣(たけうちのすくねのおほおみ)が審神者(さにわ)役となり神の意向をたずねる。憑依した神は、皇后の口を借りて「西の方に国あり。金、銀をもととして、目のかがやく、種々の珍しき宝、あまたその国にあり。吾(あれ)、今その国を帰(よ)せ賜はむ」と言った。
 西の方にある国を帰伏させようというのは、神の意志である。人間はそれに従うだけである。ところが仲哀天皇は高いところに登っても海がみえるだけで国など見えないではないかと言って、神のいうことを信じなかった。神は怒った。建内宿禰はあわててとりなそうとして、天皇に琴を弾くように言うのだが、天皇は身を入れて弾こうとしない。神は機嫌を直すことなく、ふっと琴の音が途切れたかと思うと天皇は死んでいたのである。
 驚いた皇后たちは、国を挙げての大祓をして、再び神意をたずねる。神は、皇后の腹の中にいる御子がこの国を統治するだろうと言った。いったいこの神は誰なのかと問うと、次のように答えた。

これは、天照大神の御心ぞ。また底箇男(そこつつのを)・中箇男(なかつつのを)・上箇男(うはつつのを)の三柱の大神ぞ。

 この底箇男・中箇男・上箇男の三神はすでにイザナギ、イザナミ神話に出てきている神で、死んだイザナミを追って黄泉の国へ行ったイザナギがみそぎした水底から成った神で、この三神が住吉大神なのだと説明されている。このとき同時に、底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)、中津綿津見神(なかつわたつみのかみ)、上津綿津見神(うへつわたつみのかみ)の綿津見(わたつみ)三神も成っていて、この三神は阿曇連(あずみのむらじ)の祖神として祀り仕える神だという。住吉が河の神、綿津見が海の神である。
 天照大神という太陽神と住吉三神という河の神の意向によって西の国に宝を求めることになるわけである。それらの神の教えるところでは、本当にその国を求めようと思うなら、天神、地神、山の神、河・海の神に弊を奉って、住吉三神の「御魂(みたま)」を舟の上に乗せて、真木の灰をひさごに入れて、箸と葉でつくった皿をたくさん作って、それらを海に散らして航海せよという。海中の神に供物を捧げるやり方はまるで祭の光景のようである。
 言うとおりにすると、海原の魚という魚がことごとくあらわれて船を背負って進めていく。そうして津波のような大波にのって、そのまま新羅国の真ん中あたりまで行き着いてしまうのである。土地を津波に襲われて驚いた新羅国王は、今よりのち、天皇の命にしたがって、毎年船をならべて止むことなく朝貢すると誓約する。それは半ば水の神に対する誓約のようでもある。というのも、皇后は、新羅国の門に杖をつき立てて、船に乗せて運んできた住吉大神の荒御魂(あらみたま)を国守の神として、そこに祀って帰還するからである。要するに『古事記』の語る神功皇后の新羅行きは、住吉神の託宣によってなされたことであり、お節介にも水難におびえていた新羅国王に、水の神たる住吉神を新羅国の守護として置いてくるのである。『古事記』の語る神功皇后は神意を知る巫女にすぎなかった。
 帰還した神功皇后は、各地に伝説を置いて巡航する。子どもが産まれたところは宇美(うみ)と名づけられたとか、新羅行きの途中で子どもが産まれないようにと腹にあてていた石は筑紫国の伊斗村(いとのむら)に今もあるとか、四月の上旬に筑紫の末羅県(まつらのあがた)の玉島里(たましまのさと)に着くと、河中の岩の上に座って、裳の糸を抜き取り、飯粒をつけて餌として、鮎を釣ってそれ以来、この地では女性が鮎を釣るのだとかいうのが各地で重要な伝承となっていく。

関連書籍