生きている釈迦
京都の清凉寺は、嵯峨釈迦堂と呼ばれて、白檀の香木で造られた釈迦栴檀瑞像を本尊とする。ただし、これは並の彫像ではない。生身(しょうじん)の釈迦像、つまり生きている釈迦像なのである[fig.1]。
奝然(938-1016)という僧が宋で作らせ、987年に持ち帰った像で、像高162.6センチメートルの等身大。髪型はよくあるつぶつぶしたと螺髪を貼り付けたものではなく、ウェーブのかかった髪を結い上げたようでより人間味がある感じがする。なにより特徴的なのは胎内に五臓六腑を持っていることである。像の内部に絹地でつくられた臓器が収められているのである[fig.2]。
そもそもこの像は、優填(うでん)王思慕像という形式のもので、生きている釈迦の姿を写して造られた像だった。優填王は釈迦の教えたる仏教を保護したインドのウダヤナ王のことで、釈迦と親しかった。あるとき釈迦が亡くなった母、摩耶夫人に説法をするために忉利天に昇り地上を留守にしたので、それを悲しみ、釈迦を生き写しにした像をつくって、その代わりとした。というわけであるから、この像は、釈迦そのものの姿であったはずなのである。それを模した像が次々と造られ、優填王思慕像としてインド、中央アジア、中国の各地に広まっていたわけだが、日本にはいまだもたらされていない像だった。奝然は、きっと釈迦に生き写しの像があると聞いて、ぜひともその模像を持ち帰りたいと思ったのだろう。しかも、その像は生き写しであるだけではなく、生きている釈迦像として解されていたのである。
彫像の素材は、石か鉱物か木材であって、どうしたって素材として堅く、冷たいもので、肉体の柔らかさには程遠い。それでもなお、そこにしなやかさや肉体らしさを付与しようとするのは彫刻師の願うところであろう。たとえば、イタリアのベルニーニ(1598-1680)による「プロセルピナの略奪」[fig.3]の男がつかむ指の下の女の肌感の表現[fig.4]や、東大寺南大門の金剛力士像いわゆる仁王像の、風に吹きあがる柔らかな天衣なども、そうしたしなやかさへの挑戦の証に見える。
その意味でいうと、清凉寺の釈迦像はあまりに硬直的だ。施無畏与願の印を結んで、こちらに向けた掌を肩のあたりにかかげた右手と下に降ろした左手、肩幅に広げて蓮台に立つ足、それらのどれにも動きは感じられない。というのも、この像は動きによって生々しさを表現しているわけではないからだ。そうではなくて、像の胎内に入れ込んだ内臓によって、この像は心臓を動かし、呼吸する像となると考えたわけだ。そうしてみると、幾重にもひだをつくって体の線を拾って張り付く薄い衣の質感が意外にも肉感的な身体を表現しているようにも感じられてくる。五臓六腑の他に、荼毘に付した釈迦の舎利からとった歯、仏牙が込められており、これが釈迦としてこの像を生かす霊力となるのである。喉元には鈴がぶら下げられており、動かすと声の代わりに妙音を鳴らしたのだし、釈迦の眼の奥には鏡が置かれて、眼前のものをありのままに映し込んでこの世を見つめている様が表現された。こうした生きている像への執念は、いっとき生身(しょうじん)ブームを巻き起こした。