妄想古典教室

第十一回 鏡よ、鏡よ、神々よ

鏡の妄想力

 古都の寺めぐりの楽しみの一つに仏像鑑賞がある。法隆寺夢殿の救世観音像は年に二回しか拝観できないとなれば、その日を心待ちにしてわざわざ見物にでかけるわけである。それに対して神社はお守りやおふだをもらいにいくなどの目的がないのなら、とくに観るべきものはないし、どこも同じように思えてしまう。もしかしたら拝殿の奥になにかが隠されているのかもしれないと格子扉からのぞき込んでみても、鏡が鎮座しているだけだったりする。
 神社に行っても寺でみるような彫像を観たいという心持ちは中世の人々にも共通であったようで、やはり神社も彫像や絵画が数多くつくられていた。それが現在ほとんど遺っていないのは、明治時代の廃仏毀釈のせいなのであって、神像のたぐいは大量に破壊、遺棄されたのである。だから遺っているものも、その不幸な歴史を刻んだ傷だらけの姿であったりする。
 もともと神はかたちのないものであって、どこからともなくやってきて巫覡に憑依するものと考えられていたから、神像は神そのものの姿を象ったものではなくて、神がこの世に顕われたときの仮の姿を表したものなのである。だから、男神なら人間のような束帯姿で表されることが多かった[fig.1]。明治以降、このような像が神社からすっかり消え去ったあとに、そこには鏡が残された。

 神社の鏡とはいったいいかなるものなのだろうか。
 古代人にとって、鏡が目の前のものをそっくりそのまま映すこと自体が驚きだったにちがいない。子どもだって、動物だって鏡の前に立つとたいがいはびっくりする。動物なら、自分が映っているとは思わないで、向こう側にもう一つの世界があると信じ込んでしまうだろう。映ることはかくも魔術的で、だからこそ鏡には神秘性が妄想されたわけだが、それは日本に限ったことではない。各国の墳墓の埋葬品から鏡が発掘されているのは、鏡の不思議が魔除けなどの呪力と結びつくからだ。

[fig.1] ニューヨーク・メトロポリタン美術館蔵 男神像(10世紀)

 

 現在のように鏡が姿見としての日用品となると、映すことの不思議はすっかり薄れてしまって、姿を映すことよりも、むしろ映らないことを人は妄想しはじめるようになる。たとえば、『白雪姫』のお話で、「鏡よ、鏡、鏡さん、世界で一番美しいのはだれ?」と毎日鏡に尋ねていた白雪姫の継母は、ある日突然、鏡が白雪姫の姿を映したことに仰天して、白雪姫を殺すように命じた。鏡は、目の前の像をそっくりそのまま映し出すに決まっているのだから、女王のかわりに白雪姫を映し出したりするようなことがもしも起こったら、それはとんでもない恐怖である。それで丑三つ時に鏡を見ないほうがいいだとか、夜中にトイレにいっても鏡は見るなだとかいった俗説も生まれてくるのである。
 あるいは、鏡に映る像と鏡の中の世界は実は同期していないのかもしれないという妄想にかられると、鏡は異世界への扉へと変貌を遂げる。ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』で、アリスは「鏡のむこうのお部屋は、この応接間とそっくりおんなじで、ただ何もかもさかさまなだけなのに、応接間のドアのむこうにちょっとだけのぞける廊下が、みえてる限りそっくりだけど、そのさきはまるでちがうのかもしれない」と思うことで、鏡の国へ旅立った。
 鏡は、目の前のものを反射するという実に単純な仕組みであるにもかかわらず、実際には同じにみえて左右が逆になっていたりもするし、そもそも映すことそのものが異様なのであって、さまざまな妄想を引き起こすツールなのである。たとえば『古事記』『日本書紀』の天照大神説話において、天の岩戸に篭った天照大神を引っ張り出そうとするときに、「あなたより優れた神がいる」と言って、鏡を差し出した。天照大神はそこに映る我が姿を見て、もうひとりの神がいると錯覚するのである。とすると、鏡はドッペルゲンガーの妄想にも結び付くことにもなる。

関連書籍