妄想古典教室

第七回 死ぬのが怖い

地獄の恐怖とこの世の穢れ

 平安時代の人々があれほどまで熱心に極楽往生を願ったのは、極楽世界に魅了されて、ぜひにもそこへ行きたいと思っていたからではなくて、とにかく死ぬのが怖いという死の恐怖にとりつかれていたせいである。というのも宮廷社会に出入りし、藤原道長の信頼もあつかった恵心僧都こと源信(942-1017)が書いた『往生要集』(985)は、極楽がどんなにすばらしいところかを説くのではなくて、まずはじめに地獄がいかにおそろしいところかを延々と説明することからはじめているのである。さまざまな地獄が罪のタイプ別に用意されているのだが、貴族だから、殺生したり、盗みを働いたりということはなかったにしても、邪な淫欲、飲酒、嘘をつくこと、邪な考えを持つことなども地獄行きの罪だといわれるとはなはだ心もとなくなってくる。嘘をつくことまで入るなら誰だって地獄に落ちてしまうような気がしてくるわけである。

 地獄では、灼熱の猛火に焼かれたり、体を切り裂かれたりするのだが、そのようにただ残忍なしかたで殺されるというのではすまない。死んだと思ったら生き返って、何度も惨殺されつづけるのである。死んだらそれでおしまいではなく、拷問のようないたぶりを終生、受け続けるわけだ。地獄の苦しみとはまさにこのことである。この地獄の説明が驚くほど詳細にくどくどと続くのである。『往生要集』は極楽世界の魅力を語ることをあらかじめ放棄し、とにかく死んで地獄に墜ちるのは怖いという恐怖心をまずは人々に植え付けた。だから極楽世界を描いた曼荼羅などは、ただ池のまえに阿弥陀仏がすわっていて、唄い踊る者たちがえがかれているだけで、ほんとうにそこがすてきな世界かどうかははっきりつかめない代わりに、地獄を描いた地獄絵図はやけにリアルでおそろしく強いインパクトを持っているということになる。

 仏教の教義において人間は、極楽往生しないのならば六道を輪廻することになる。六道とは、地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人道、天道である。

 地獄道はそのように恐ろしい場所だし、ケチだったり嫉妬深かったりする人が落ちるという餓鬼道も、お腹がすいても食べさせてもらえず、のどが渇いても水を飲ませてもらえず鬼にいじめられ続けるほとんど地獄のようなところだ。畜生道で牛馬に生まれ変わって、ムチ打たれながら労働するのもつらいだろうし、阿修羅道で年がら年中戦争状態にあるというのも悪夢のようだ。

 だとしたら、人道でふたたび人間に生まれ変わるのはそんなに悪いことなのだろうか。また人間やるのでもいいな、むしろ人間をまたやりたいなと現在のわたしたちなら思ってしまうかもしれない。けれども人道には不浄の相、苦の相、無常の相があるので、十全な安寧を手に入れることはできないと『往生要集』は語る。とくに不浄の相について熱を入れて説明し、なにしろ人間の身体というのはとにかく臭いし汚いから、これはもうダメだというのである。内臓についても解剖学講義がごとくに微に入り細に入り説明した挙げ句、「三升の糞」がつまっていると言い、大腸、小腸は毒蛇がとぐろを巻いているようだという。身体の穢れ具合といえば、どんなにおいしいものを食べても糞便が臭いのをみればわかるとおりである。またどんなに美しい衣をつけてもその身体には臭くて汚い糞便がつまっているのである。とどのつまり、糞便を体内に持っている限り、人間というのは不浄以外のなにものでもないのだというのである。フロイトなら肛門期固着と認定しそうな糞便への異様なこだわりを感じさせるが、便所のことを、ご不浄といったりもするのだから、『往生要集』的な不浄感はある程度、人々に共有されたものであろう。とにかく糞。糞がつまっている限り幸せにはなれないのである。

 人道には、不浄の相の他に、苦の相、無常の相があって、人生は苦しみでいっぱいだし、たとえつかのまの幸せがあっても必ず別れがおとずれ、人の世とはそのように無常なのだと説かれている。なるほど人道も理想的な世界とは言いがたい。

 だったら天人の住まう天道に行けたらよいのではないかと思うが、極楽とちがってそこは死がある世界なのである。美しい天人も天人五衰といって悪臭を放って肉体を腐らせて死んでいくのである。

 『往生要集』が説く六道の問題点を一言でまとめるなら、要は六道輪廻している限り、死の恐怖から逃れることができないということになる。そこで、死の恐怖から永遠に逃れるために極楽へ往生しましょうと話をもっていくのだが、極楽往生するためには死ななければならないのである! この矛盾、この恐怖をいったいどうしたものだろう!

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