妄想古典教室

第三回 おタマはなぜ隠されたか?
股間表現をめぐる男同士/女同士の絆

全裸のおたま地蔵の発見

 奈良、新薬師寺のおたま地蔵が、なぜおたま地蔵と呼ばれているかというと、素っ裸の男性像の、その股間にまるまるとした蓮の花のつぼみを象った「おたま」をつけているからである。鎌倉時代、1238年頃造立のこの地蔵は、昭和58(1983)~59(1984)年に行われる修理までは、景清地蔵と呼ばれていた。衣をつけた右手に錫杖の代わりに弓を持つのが変わってはいるが、ごく一般的な木彫の地蔵像であった[fig.1]

[fig.1]景清地蔵修復後
副島弘道・長沢市郎・水野敬三郎・藪内佐斗司「新薬師寺地蔵菩薩像修理研究報告」『東京芸術大学美術学部紀要』第21号、1986年3月(以下、[fig.4]まで同)

 

 ところが、昭和の解体修理で、着衣の地蔵像のからだの中から、素っ裸のもう一つの像が出てきてしまったのである。1238年に造られた像とは、素っ裸のほうであったのである[fig.2]。その時点で、景清地蔵は、おたま地蔵と命名されなおされて、新薬師寺ではそのご利益をあらわす土産品として、金に塗られた蓮の花のつぼみ、というか金の「おたま」が売られるまでになった。

 おたま地蔵のほうに頭部がないのは、着衣の地蔵の頭がもともとくっついていたからだ。素っ裸のオリジナル像は、ある時期に着衣の地蔵像に変身させるべく、大改造が行われたのであった[fig.3]。おたまのついた全裸の体をすっぽり覆うように、地蔵像を貼りこんでいったところ、もとの裸体像より胴部が大きくなってしまったことから、それに合わせて頭部も板をついで拡張しているのである。着衣の地蔵像の右手は弓を持つ拳を前に突き出しているのだが、もともと裸体像のほうの右手は、掌をこちらに向けて下に降ろしている姿であった。左手はいずれも宝珠を乗せる姿で共通していた。したがって着衣の地蔵像にするときに、下に降ろした右腕は切断されている。足も着衣の像に合わせて切断してある。そうした切断された断片は無下に捨てられてしまったわけではなくて、この像の胎内に収められてあった。それで、オリジナル像の姿が明らかになったわけである。

[fig.2]おたま地蔵

 

[fig.3]おたま地蔵構造図

 

 そもそもおたまのついた全裸のオリジナル像はいったいいかなる理由でつくられたのか。おたま地蔵の造像の由来については、解体修理の際に発見された胎内納入品によってわかっている。副島弘道・長沢市郎・水野敬三郎・藪内佐斗司「新薬師寺地蔵菩薩像修理研究報告」(『東京芸術大学美術学部紀要』第21号、1986年3月)によると、尊遍という僧侶が願主であり、自ら造像願文を書いている。願文には、嘉禎4(1238)年11月19日の日付で、この像は先師、大僧正実尊の出離生死頓証菩提のために、つまり速やかに悟りにいたるようにと造立奉るなり(今此像者為先師大僧正実尊出離生死頓證菩提所奉造立也)とある。尊遍は自らの師である実尊の死後に、実尊の菩提を弔うためにこの像を作ったというのである。実尊は、嘉禄2(1226)年7月2日、興福寺別当ならびに春日社の社務職に任じられて、興福寺の大僧正にものぼるが、嘉禎2(1236)年に57歳で亡くなっている。このとき尊遍は43歳。

 弟子尊遍は、先師が在世の間、真に云わく、俗に云わく厚恩を蒙ったのだが少しの報謝もないままに、師が亡くなってしまい、悲嘆のあまり、一躰の形像を聖霊の御質になぞらえて、昼夜親近し、常に従い仕え奉ることとしたと書きつけている(弟子尊遍彼御在世之間云真云俗蒙厚恩一塵無報謝実滅後今悲之歎之余一躰之形像擬聖霊之御質昼夜親近常随奉仕)。

 尊遍は、実尊の死後悲嘆に暮れて、この像を造ったというのだが、この願文の日付から実尊の没後およそ二年後には、師の姿を象った像はほぼ出来上がったということになる。

 まさに実尊の魂の込められた師の似姿であったのだから、弟子の尊遍は、まるで師が生きているかのように衣を着せかえて仕えていた昼夜まつっていたのである。その意味で、尊遍にとって、この像は実尊そのものだったのである。

 また願文には、尊遍自らの臨終のときには苦しまずに死にたいとの願いも書いてある。この点について、水野敬三郎は、「尊遍は願文中で第一に、自らの臨終に際して死期を知り、微苦少悩ならんことを祈っている。願文に記される願いとしてはやや特殊に属することといえよう」と述べて、次のように推測する。

 

 『春日権現験記』によれば実尊には喘息の持病があった。その入滅も呼吸器系の疾患による、少なからぬ苦痛をともなってのものではなかったか。その臨終に立会った尊遍が自らの命終時に思いをはせて、苦痛の少なからんことを切実に願ったのではないかと想像される。(水野啓三「新薬師寺地蔵菩薩像(景清地蔵)について」『日本彫刻史研究』中央公論美術出版、1996年)

 

 もし七転八倒の末に亡くなったとすれば、極楽往生を願って修行を積んできた僧侶にとって、それはとんでもない恐怖であったにちがいない。たとえば『平家物語』によると、平清盛は、死の直前まで頼朝の首をとれなかったことを悔やみ続けているような人として描かれているのだが、北の方の夢に閻魔庁から迎えの車がやってきて東大寺を焼き討ちし大仏を焼きほろぼした罪によって清盛は無間地獄に堕ちることが告げられている。地獄行きの確定している清盛の最後は「悶絶躃地して遂にあつち死ぞし給ひける」と伝えられている。つまりもだえ苦しみはねまわって悶死したのであるが、それは地獄行きの徴しだというわけだ。

 興福寺の大僧正たる実尊が、悪名高い平清盛のような悶死をしたとなれば、実尊に親しんだ尊遍が自分もまたそのような死を迎え地獄に堕ちるのかもしれないと恐れおののいたとしても不思議はない。尊遍が願文にまじないのように「出離生死」「頓証菩提」と書きつけて成仏を願い、自らの死の安からんことを願ったのは実尊の死に様があまりに不気味であったゆえだとする水野の想像はまさにそのとおりだったのではないかと思われる。

関連書籍