ひきこもり支援論

第2回 どこから〈聴くこと〉は始まるのか

共感の落とし穴

 私自身は引きこもった経験がなく、身内に引きこもっている人がいるわけでもありません。にもかかわらず、どうして「ひきこもり」に関心を持ったのかといえば、それは端的に言って共感からでした。私が「ひきこもり」のことを知ったのは、大学院に進学する1年ほど前のことです。テレビのニュース番組で特集が組まれていたのを見たのが、「ひきこもり」に触れた最初だったと思います。私は幼い頃から人との距離の取り方に思い悩み、集団行動にもあまり馴染めませんでした。しかも、そのニュース番組を見たのが大学卒業後の進路を決めかねている時期だったこともあって、「ひきこもり」が他人事ではないように感じられました。テレビに当事者として映っている人たちと自分が、大きく隔たっているようには思えなかったのです。それならば、どうして自分は引きこもらずに今日まで来られたのだろうか? この人たちと自分との間に一体どういう違いがあるのだろうか? こうした素朴な共感と疑問がスタートになりました。

 そういうわけで私は当初、当事者の経験を理解するのはそんなに難しいことではないと思っていたような気がします。しかも、接点を持った当事者の多くが同世代だったこともあって、年の離れた支援者や親御さんたちよりも、自分のほうがかれらのことを分かるとさえ思い込んでいた節があります。しかし、事はそう簡単ではありませんでした。「ひきこもり」の集まりで先ほど述べたような悩みを吐露し、また先行きの見えない大学院生活の不安を語ってみても、お前には大学院生という立派な身分があるではないか、引きこもったことがあるわけでもないのに自分たちの何が分かるのかと、当事者たちから冷たいまなざしを向けられるだけでした。

 いま振り返ってみると、その頃の私は当事者への共感を振りかざして、かれらに同化しようとしていたに過ぎなかったのだと思います。また、研究という目的を前面に押し出すよりも、人生に思い悩む若者のひとりとして自己呈示しておいたほうが、現場に受け入れられやすいのではないかという打算もなかったとは言いきれません。そういう振る舞いが当事者たちの反感を買うのは、至極当然だったと言えます。

 そんな自分のいやらしさを徐々に自覚するようになった私は、引きこもった経験があるわけでもなく、「ひきこもり」の当事者であるという自己規定を持つわけでもない非当事者として、自らを位置づけるようになりました。これはさらに、非当事者である私が当事者の経験を理解できるのか、という難問につながっていくのですが、ここには後で戻ってくることにして、2つ目の難問に話を進めたいと思います。

あってはならない感情?

 こうして距離を取るようになっても当事者への共感がなくなったわけではありませんでしたが、他方、私のなかではまた別の感情が膨らんでいきました。その感情とは、苛立ちやもどかしさでした。2000年代中ごろのことです。

 その頃、当事者と親の高年齢化がクローズアップされて将来への不安が高まるとともに、自助グループなどに参加して一定の年数が経ち、精神的にも安定しているように見えながら、なかなか就労に結びついていかない人びとが問題視されるようになっていました。当事者たちはそうした状況に居直っていたわけではなく、自己否定感を強めている人のほうが多いように見受けられました。

 また、現場では「働いて稼げるようになって一人前」という価値観が当事者を苦しめているという見方が、それなりに広まっていました。そのため、かれらが表立って批判されるようなことはありませんでしたが、当人の焦燥感や劣等感を刺激しないようにと言われ続けてきた親たちは不安と不満を募らせ、支援者たちも状況がいっこうに変わらないことに徒労感を覚えているようでした。

 私自身も表向きは日増しに強まっていく就労重視の風潮に対する疑問や懸念を主張していましたが、実際には周囲の人々が抱いていたのと近い感情を抱いていました。もっと言ってしまえば、「何だかんだ言っても稼げるようにならなければ暮らしていけないではないか」と思っていたのです。にもかかわらず、私はそのことをひた隠しにしていました。というのも、当事者の思いや経験を汲み取ることを第一義的な課題としていた私にとって、かれらを否定するような感情はあってはならないもののように感じられたからです。また、世間的には「ひきこもり」が良くないものとされているなかで、自分もそういうまなざしを持っていることが知られれば、現場から排除されてしまうのではないかという恐れも、正直に言ってありました。  

 ですが、うわべだけ取り繕うような態度を取ることのほうが、よほど相手の信頼を損なうことは間違いありません。また、研究のための調査も、突き詰めてみれば生身の人間同士の付き合いです。したがって、ほかの人間関係と同じように好意だけでなく敵意や反感が生じるのは全くおかしいことではなく、また不適切であるとも言えません。何より自分を偽り続けることは、相手を欺くのと同じくらいに息苦しいことです。この息苦しさに耐えられなくなった私は、当事者に対してネガティブな感情を抱いていることを率直に認め、その感情をじっくり眺めてみることにしました。

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