生き抜くための”聞く技術”

第12回 もっともらしく聞こえるものこそ、疑おう

日々の暮らしの中で聞こえてくるものに何が潜んでいるのだろう?

 

 前回までは「聞く」という行為に潜む危うさと、きちんと聞くことの重要性を、歴史を紐解きながら考えていったよね。きょうからもう少し実践的に、日々の暮らしの中でどんなことに気をつけて聞けばいいのか、一緒に考えていきたいと思う。

 ぼくはテレビの世界で報道の仕事をしているから、まずはその中で感じていることを話したい。

 最近、一部のメディアに対して「反政府」、「反安倍」という言葉が投げかけられるのをよく聞く。反安倍は言うまでもない。反安倍総理ということだ。ぼく自身もテレビでの発言に対して、あいつは反政権、反安倍だとネットを中心に言われたことは一度や二度ではない。反安倍と言われたときには、きょとんとしたものだ。その前の民主党政権でも時に総理を批判していたけれど、反鳩山などと言われたことはなかったからだ。

 そうした言葉は、時に「あそこは『反日』メディアだ」といった言葉にまで結びつく。

「反日」を辞書で引くと「日本に反対すること。日本や日本人に反感をもつこと」(広辞苑第六版)とある。日本のメディアで、そこにいる記者たちも日本人なのに、日本や日本人に反感を持って伝えているとでも言うのだろうか。あるいは日本のためにならないメディア、そうした言葉を投げかける側から見たら日本にとって害になるメディアという意味を含めているのだろうか。

 こうした「反政府」「反日」といった言葉がメディアに向かうようになったのは、いつからだろう。ぼくはもう30年以上記者をやっているけれど、最近までこうした言葉を投げかけられた経験はない。ある特定の思想を持った人たちは前から使っていたかもしれないけど、ネットを中心に日常的に目にするようになったのは最近のことだろう。

 「反政府メディア」、「反日メディア」という言葉を、みんなは聞いたことがあるだろうか。聞いたことがある人は、それを聞いてどう思っただろうか。聞いたことがないという人は、もし聞いたら、どんな風に感じるだろうか。ああそうか、あそこの新聞社、あのテレビ局は反政府なんだ、そう指摘された記者は反日なんだと思う人もいるんじゃないかな。しかも繰り返し、何度も耳にしたとしよう。最初はそうは思わなかったとしても、意識のなかに刷り込まれていく可能性だってあるんじゃないだろうか。

反日と叫ぶのは誰?

 それではこうした言葉を日常的に耳にするようになったのはどうしてだろう。

 その底流にあるのは、<政府を批判するメディア=反政府メディア=反日メディア>という図式ではないだろうか。

 選挙で国民に選ばれた政府を批判するのはけしからん、だから反政府メディアだ。それだけじゃない。あそこまでしつこく政府を批判するのは、日本を貶めようとしているに違いない。あいつらは反日なのだ。

 こうした構図のなかで不思議に思うのは、政府を批判するメディア=反政府メディア、という発想だ。政府を批判するという行為を、なぜ反政府とみなすのか。それがなぜ反日という極端な言葉につながっていくのか。

 そこに決定的に欠落しているのは、報道の仕事は何かという視点だ。

「権力は腐敗する。絶対的な権力は絶対に腐敗する」

 これはイギリスの歴史家のジョン・アクトンの言葉だけど、これが当てはまるのは専制君主の時代だけではない。民主主義の今の時代でも言えることだ。権力を得た人間は往々にして、税金を一部の人間のために使おうとしたり、歯向かう人間を警察権力で押さえつけようとしたり、ワイロを受け取ったりするものだ。だからこそ議会や裁判所がチェックできるような仕組みを、長い歴史のなかで人々は作り上げてきた。

 報道もその一翼を担っている。権力をチェックすることは報道にとって、とても大事な仕事だ。権力を抑制的に使うリーダーもいれば、使える権力は最大限使おうとするリーダーもいる。むき出しの権力は、ひとりの個人など吹き飛ばしてしまうほど強力なものだ。だからこそ、権力は幾重にも監視されていないといけないのだ。

 こうした前提はこれまでは社会で当たり前のように共有されていたように思う。

 しかし最近、こんな風に感じるようになった。

 これまで社会を支えてきた前提とでもいうべき共通認識が、いま急速に揺らいでいるのではないだろうか

 権力チェックは報道の大事な仕事だという前提も、そのひとつだ。メディアに対するそうした共通の前提が崩れてきているからこそ、政府を批判するメディアは反政府、という決めつけがまかり通ってしまうのではないだろうか。

 日本という国をもっとよくしたい、もっと言えば国を愛しているからこそ、批判することだってある。みんなは、そうした想像力をぜひ働かせてほしい。批判=反、という図式は、一見もっともらしく聞こえる。でもこうした単純な図式を耳にしたときこそ、ぜひ疑ってほしい。本当にそんなふうに言えるのか、大事な前提が無視されてはいないか。疑うことほど、思考を鍛えてくれるものはない。