生き抜くための”聞く技術”

第8回 「聞くこと」が生死を分けた

極限の状態で聞くということ


 ぼくたちは「聞く忍耐力と能力」を失いつつあるんじゃないかと前回、話したよね。きょうは、もしそうだとすると何が起きうるのかということを考える上で大事なことを話してみたい。最初に「はじめに」でも言ったように、「聞く」という行為は油断すると、どこかとんでもない場所に連れていかれてしまう、ということについてだ。脅かすわけじゃないけど、ぼくたち人間が過去にしてきたことをきちんと見つめておくことも必要じゃないかと思う。
 まずは、戦争中に起きた悲劇だ。
 みんなは70年以上前の戦争というものに接する機会はあるだろうか。毎年夏になると、広島原爆の日、長崎原爆の日、そして8月15日の終戦記念日と祈りの日々が続くよね。
 日本の主な都市はことごとく空襲を受け、広島と長崎はアメリカ軍によって空から原爆を落とされた。
 じゃあ日本で、アメリカ軍の部隊が上陸してきて、地上戦が行われた場所があることは知ってるかな。そう沖縄だ。終戦の日のほぼ2か月前、6月23日に沖縄で記念式典が開かれているのを、ニュースで見たことがある人もいるんじゃないかな。
 沖縄戦は本当に悲惨だった。戦争なんてみんな悲しいことが起きるという声が聞こえてきそうだけど、その通りだと思う。だけど、およそ20万人もの死者が出た沖縄戦は、地元の住民もたくさん戦闘、それも米軍と直接向き合う戦闘に巻き込まれた。住民の4人にひとりが亡くなったほどだ。みんなの中には高校生や大学生もいると思うけど、沖縄戦では10代の少年まで駆り出され、軍に組み込まれたんだ。

 沖縄本土へのアメリカ軍の上陸が始まったのは、1945年4月1日。沖縄中西部にある読谷村(よみたんそん)の海岸からだった。住民たちはガマとよばれる自然の洞窟に身を隠していた。もしみんながそこにいたとしたら、どうしただろう。日本軍が駆けつけ助けてくれることを願うかもしれないが、そんな状況ではなかった。米兵たちが銃を持って近づいてくる。白旗を上げて降参して、捕虜になる道を選ぶだろうか。
 たぶんぼくは殺されたくないから、捕虜になるだろう。しかし当時、本当にそう言えたかと問われると、自信はない。
 「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」
 この言葉を聞いたことがあるだろうか。1941年に当時の陸軍大臣だった東条英機が出した訓令、つまり軍人が守るべき教えをしるした文書の中にあった一節だ。
 敵の捕虜になって辱めを受けるくらいなら、潔く自決せよ、という意味だ。この言葉に象徴される考えを、当時の日本兵は共有していた。軍人だけではない。そうした考えはみんなとは言わないまでも住民の中にも浸透していたと言ってもいい。米軍は鬼畜(きちく)、つまりけだもののような人間たちだから、もし捕虜になったら八つ裂きにされるとか、女性だったら強姦されて殺されると教え込まれていたんだ。
 日本兵が中国でやっていたことを知っている人もいた。捕虜になってはいけないという教えを受けていた日本兵に、敵の捕虜を丁重に扱うという習慣が身につくはずもない。だから中国で市民を殺害したり、女性を強姦したりしていたケースが、残念ながら本当にたくさんあったんだ。そうした日本兵の振る舞いを知っていれば、もしアメリカ軍に捕えられたら同じことをされるに違いない、そう信じ込んでいても不思議ではないと思う。
 もしそんな時代に置かれていたら、みんなは捕虜になる道を選べるだろうか。ものすごく激しい葛藤が生まれるんじゃないだろうか。

「非国民」と呼ばれた男の「聞く力」

 これから話すのは、その葛藤に見舞われたふたつのガマ(洞窟)だ。
 チビチリガマとシムクガマ。
 わずか600メートルしか離れていない、このふたつのガマに足を運ぶたび、ぼくは生死を分けたものを考えて立ちすくんでしまう。
 チビチリガマには、140人ほどの住民が隠れた。
 アメリカ兵を見たひとりの女性が駆け込んできたため、ガマの中はパニック状態になる。
 じきに日本語を話せるアメリカ兵が入ってきて、こう呼びかけたという。
「カムオン(COME ON)、デテコイ、コロサナイ」
 でも住民たちはガマのさらに奥に移動する。殺さないという言葉を聞いても、信じることができなかったのだ。あきらめたアメリカ兵は投降を呼びかけるビラと、チョコレートなどを置いて、いったんは立ち去る。
 そのあとガマの中では、自決すべきだとして布団に火を放つ元日本兵、死にたければ勝手に死ねと叫んで火を消す女性たち。死ぬべきだとする人と、それを良しとしない人々の間で、激しい言い争いが続いたという。
 そして翌朝、ふたたびアメリカ兵がやってきたとき、悲劇は起きた。
「コロサナイ、デテキナサイ」
 アメリカ兵の言葉に対して、元日本兵が「殺さんなんてウソだ。誰も信じてはいかん」と叫んだという。住民たちはアメリカ兵の言うことには耳をかさず、元日本兵の言葉を聞く。
 そして修羅場がやってくる。米兵に残酷な殺され方をするくらいならと、ひとりの母親は息子を包丁で殺し、看護婦だった若い女性は自分の家族に次々と毒を注射する。「天皇陛下、バンザイ」と叫んで死んでいった住民もいたという。結局、140人のうち、80人以上がそんなふうにして亡くなっていったんだ。
 もうひとつの洞窟、シムクガマはどうだったのか。
 ここではまったく違う展開になる。
 シムクガマは巨大な洞窟で、1000人もの住民が身を隠していた。
「カムオン(COME ON)、デテコイ、コロサナイ」
 米兵の声に、住民たちからはチビチリガマと同じ反応が起きた。ガマの中は大混乱となり、日本人ならいさぎよく自決すべきだという声が上がる。実際、毒を持ってガマの奥に向かう住民に、多くの人がついていったという。
 ところがそのとき、ふたりの男性がガマから外に出る。彼らはハワイに移民として暮らしたことがあって、英語を話すことができた。でもここで大事なのは言葉よりも、彼らが「コロサナイ」という言葉をどう聞いたかだ。
 しばらくすると、ふたりはガマに帰ってきたみなに告げる。
「アメリカと話してきた。手向かいしないかぎり、殺さないと約束した。大丈夫だ。さあ、出よう」
 彼らはハワイでの生活から、アメリカ兵が日本兵のように捕虜を殺すとは思えなかったのだ。もちろん確証があったわけではないはずだ。でも自らの経験から「コロサナイ」と言うアメリカ兵の言葉に耳を傾ける道を選んだのだ。ひとりは日本兵によく逆らっていたことから、「非国民」と呼ばれていたという。当時、非国民と呼ばれることほど、屈辱的なことはないと言ってもいい時代だ。それでも彼は世の中の空気に呑みこまれず、自分の経験と直感を信じたのだ。
 その結果、1000人もの住民の命が助かった。非国民と呼ばれていた男性の判断によってだ。多くの犠牲者を出したチビチリガマとは、残酷なまでに対照的な結末だった。
 このふたつのガマの話を思い起こすたび、自分だったら「コロサナイ」というアメリカ兵の言葉をどう聞いただろうかと、考えてしまう。非国民という言葉に代表される社会の空気や同調圧力は、それを疑うという気持ちをやはり自分から奪っただろうか。ガマに居たほとんどの住民たちと同じように。
 そしてもし自分がハワイに住んだことがあったとしたらどうだろう。その後、沖縄に戻ってきても当時の日本の軍国主義の空気に染まることなく、アメリカ兵はコロサナイと住民たちを説得することが出来ただろうか。
 極限の状態で発せられる「コロサナイ」という言葉。みんなだったら、どう聞いただろうか。

○「沖縄・チビチリガマの”集団自決”」下嶋哲朗 岩波ブックレット
○沖縄県の読谷村の総合情報サイト(読谷観光協会)


 

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