生き抜くための”聞く技術”

第1回 はじめに
耳を澄ませてみませんか

なぜ聞くことが大切なのか?

 そう言うと、べき論のお勉強、また説教かよと身構える人もいるかもしれない。ぼくだってべき論を延々と聞かされるのは嫌だし、するつもりもない。なぜ聞くことが大切なのかという問いにそんな匂いがするなら、言い方を変えてもいい。

 聞くことはものすごく楽しいんだよ。そう言ったらどうだろう。ホント、聞くことはワクワクすることだし、君の人生をすごく豊かにするとぼくは信じている。

 ウソだ、話すことのほうが大事だよ、と反論する人もたくさんいると思う。その証拠に、話がうまい人が社会で成功しているじゃないか。お笑い芸人は人気者になってたくさんお金を稼いでいるし、政治家にだってそれなりに話せなきゃなれない。それにスピーチコンテストはあるけど、聞くコンテストなんて聞いたことない。会社で働く人に尋ねても、プレゼンがうまいほうが仕事を取れるって言っていた。やっぱり、どう話すかが大事。どれだけ自分のことをアピールできるか、どれだけ話がうまいかで、世の中を生き抜けるかどうかが決まるんだ。

 そうじゃない?

 もしそんなふうに思う人がいるとしても無理はない。話す人が世の中をひっぱって、聞く人は黙って従っているようにも見える。それは話すことが能動的で、聞くことはいかにも受動的な響きがあるからかもしれない。第一、地味だし、退屈な感じがする。学校で授業を聞いているときのことを思い出すと、けっこう苦痛だったことをぼくも白状しきゃいけない。落ち着きのない子だったから、机に座って石のようにじっとしているのは本当につらかった。クラスでは黙って聞いている子より、話がうまい子のほうが目立っていたのも確かだ。

 でも聞くことより、話すことのほうが本当に大事なのだろうか。

「聞く達人」を紹介しよう

 ふたりの人のエピソードを紹介したいと思う。

 ひとりは、筑紫哲也さん。しばらく前になるけど、テレビで夜のニュース番組のキャスターを18年以上やっていた人で、もともとは新聞記者だった。筑紫さんは朝日新聞の政治部というところにいたから、政治を取材してきた記者というイメージを持たれていたかもしれない。

 でも筑紫さんの特徴は政治だけでなく、社会問題、歴史、文化などたくさんの分野に興味を持ち、幅広い知識を持っていたことなんだ。とくに文化を愛していたように思う。たとえば映画についても、歌舞伎についても、演劇についても、オペラについても、ジャズについても、クラシックについても、詩についても、きりがないからこの辺でやめるけど、とにかく話題の豊富な人だった。

 そうした引き出しの多さから、番組の中でも「多事争論」というテレビコラムを持っていた。ニュースに関係することを中心に、自分でテーマを決めて毎日、原稿なしで1分半話すんだ。もしぼくにやれと言われたら、逃げ出してしまうと思う。もしかしたら何回かならできるかもしれない。でも筑紫さんは月曜から金曜まで毎日やっていたから、延べにすると3000回以上はやったことになる。それぞれちゃんと意味のあることを話し、落ちまでつけなきゃいけない。考えただけで、冷や汗が出てしまう。

 筑紫さんはなぜそんなに話すことが出来たのか。ずっと不思議だった。でも亡くなった5年後に筑紫さんのドキュメンタリーをつくったとき、その謎が解けた気がした。ゆかりの人々に筑紫さんの思い出を聞いて回ると、多くの人が口をそろえたのだ。筑紫さんは“聞く人”だったと。一緒に居ても、自分でしゃべるよりも、人の話をじっと聞いている。特に若いころは人見知りが激しかったようで、いつも黙って聞いていたと。

 もうひとりは、糸井重里さんだ。

 糸井さんはぼくらの世代からすると、ひとつの時代をつくったコピーライターという印象が強いけれど、今では「ほぼ日」の糸井さんと言ったほうがたぶんぴったりくると思う。    

 その糸井さんと話す機会があった。

 当時、ぼくは夜のニュース番組のキャスターをしていたこともあって、報道についての話題が出た。ぼくが担当していたのは夜の11時という遅い時間の番組だったから、どうしても他の局がすでに取り上げたニュースを、あとで放送することになる。視聴者からすると「もう観たよ」ということになってしまうんだ。

 それでも大きなニュースははずせない。かといってニュース番組がどこも似たりよったりになるのがいいと思っているわけじゃない。ぼくが感じているそのジレンマを糸井さんはふむふむと聞いていたかと思うと、つぶやくように言った。

「借景ニュースにしたらどうかな」

 つまり「このニュースはすでに他の局がやっていますので、私たちはこれをやります」と宣言して、まったく別のものを取り上げるのも面白いじゃないかというわけだ。他のニュース番組を、借景として使う。だから借景ニュース。初めて聞く言葉だった。当然だ。糸井さんがその場で生み出した言葉だからだ。

 ぼくはそれを聞いて、心の底から感動してしまった。他がやっているから、自分たちは別のものを取り上げるという考え方自体は前からあるけれど、「借景ニュース」という言葉によって、雲の合間から月が顔を出すようにくっきりと輪郭が見えた気がしたんだ。

 何より、聞いた中味を自分の中に取り込み、新しいコンセプトを生み出す糸井さんの創造力、そしてその前提となる“聞く力”に触れた気がしたんだ。それはジャズのセッションのようなものかもしれない。相手の演奏に呼応することで、思ってもいなかったようなメロディーを発する。そう考えると、聞くことは決して受動的なものではなく、実は能動的な行為そのものとも言えるんじゃいかな。糸井さんは若いころから、そうした打席に数えきれないほど立つことで、感受性を研ぎ澄ませてきたんだなあと、本当に感動してしまったんだ。

 これから始める連載でぼくが伝えたいのは、とてもシンプルなことだ。

 聞くことはものすごく楽しくて自分を豊かにすることだけれど、油断すると、どこかとんでもない場所に連れていかれてしまう。だから、ちゃんと耳を澄ませよう。

 それだけのことだ。でも今の時代、次から次へと押し寄せる情報の波に溺れることなく、常に水の上に顔を出して潮の流れをじっと見つめているのは簡単なことじゃない。

 このところフェイクニュースという言葉が飛び交っている。偽のニュース、嘘の情報のことだ。嘘なんて世の中にいくらでも溢れてるよ、という声が聞こえてきそうだ。確かにそうだ。むかしからデマなんていくらでもあったし、誰かを誹謗中傷する怪文書が出回るのは今も珍しくない。ただデマや嘘をどれだけ耳打ちしても、伝えられる人数には限りがある。ところがネットの時代には、あっという間に世界をかけめぐってしまう。

 たとえばこの間のアメリカの大統領選挙では、偽のニュースが選挙結果を左右しかねないほどの影響力を持ったと言われた。選挙の終盤3か月ほどは、ネット上で本当のニュースがシェアされた数よりも、偽のニュースのシェア数のほうが上回るという事態が起きたほどだ。中には100万回以上シェアされたデマもあった。それだけじゃない。大統領になったトランプ氏は、その後も真偽不明の情報を積極的に流している。アメリカの大統領自らが、フェイクニュースを拡散しているのだ。受け取る側からしたら、何が本当かわけがわからなくなるよね。それが今の時代に起き始めていることなんだ。

 アメリカだけじゃない、今や世界で、もちろん日本でも偽の情報はネット上に溢れている。ただの間違いならともかく、その中には悪意のあるものもたくさんある。じゃあ、それが本当なのか、ウソなのかを見分けるにはどうしたらいいのか。情報をどう聞き分けるかが以前より大事になってくるよね。

 それなのに残念ながら、人々はますます他人の声に耳を貸さなくなっているように思える。

 国会でも自分の立場を主張するばかりで、相手の言うことを聞こうとしない。そうすると何が起きるのか。理解が深まるどころか、対立ばかりが深まっていく。アメリカやヨーロッパなど多くの国で、分断という言葉がキーワードになっているほどだ。

 新聞も以前より、ふたつに分かれているように見える。いいかどうかは別にして、どの新聞が右で、どの新聞が左かという分類だ。そうすると何が起きるのか。どんな記事が出ようとも、逆の立場の人々は「またあの新聞が言ってるよ」と冷めた反応をするだけで片づけてしまう。記事の中味に、耳を澄ますこともなく。

”聞かないこと”で起きた事件

 “聞かないこと”で起きた事件も少なくない。私が取材した最悪のケースのひとつは、1980年代末から90年代にかけてのオウム真理教をめぐるものだ。周りから隔絶した閉じた世界の中で、教祖の声だけを聞いているうちに、信者たちは思わぬ場所まで連れていかれてしまう。その中には一流大学を出た優秀な人々まで含まれていた。いくつかの事件を起こしたあと、彼らはとうとう地下鉄サリン事件という無差別テロまで起こしてしまうのだ。裁判を傍聴しながら、彼らが外の世界の声にもっと耳を澄ませていたら、と何度思ったかしれない。彼らはオウムという共同体の閉じた世界の声だけを聞いているうち、悪にからめとられていったのだ。

 “聞くこと”が人々を虐殺に駆り立てたケースもある。

 20年以上前のことだけど、アフリカのルワンダという国で50万人とも100万人とも言われる人々が虐殺された。ツチとフツというふたつの民族の対立が続くなかで起きた悲劇なのだけど、きっかけは大統領が何者か殺されたことだった。これを機に対立が激化、「犯人はツチ族だ。奴らはゴキブリなんだ。だから駆除しよう」というメッセージがラジオから繰り返し流され、それを聞いたフツ族の人々が背中を押されるように、ツチ族を殺していったのだ。殺人を犯したのは過激派と呼ばれた人々だけじゃない。ごく普通の人も「ゴキブリだ」というささやきを繰り返し聞いているうち、ツチ族は自分と同じ人間ではないとみなすようになり、虐殺に手を貸したことが後にわかっている。

 聞くことの意味を示す例を紹介するうち、恐い話になってしまった。言いたかったのは、油断するととんでもないところに連れて行かれてしまうことだってある、ということなんだ。脅すなよと言う人もいると思う。でも人間というものが、あるきっかけで悪のスイッチが入ってしまう生き物であることは、歴史が証明している。人間である限り、自分だけは例外というわけにはいきそうにない。もちろん、このぼくも。

 光があるところには必ず影があるように、聞くことがプラスに作用することもあれば、マイナスに働くこともある。そのあたりを見抜く嗅覚は、自分で小さな失敗を繰り返しながら学んでいくしかないのだけど、聞くことを通して自分が豊かになっていけるとしたら、そっちのほうが遥かにいいように思う。もしこの連載がその手助けになるとすれば、ぼくとしてはとてもうれしい。

 少しだけ、自己紹介をしておこう。

 ぼくはテレビの世界で記者やキャスターの仕事を30年以上やってきて、世界のあちこちでこれまで数千人にのぼる人々にインタビューしてきた。その中には政治家もいれば、スポーツ選手もいれば、芸術家と呼ばれる人たちもいる。事故の被害者もいれば、事件の加害者もいる。聞くことでいろいろ失敗もしてきたけれど、楽しかったことのほうがずっと多い。そう考えると、ぼくは聞くことに魅せられてきた人間なのだろう。

 どう聞くのか。そこに正解はない。ぼくはわかっていると、言うつもりもない。何より共に考えていくことができたらと思う。

 さあ、一緒に耳を澄ませてみませんか。

関連書籍