生き抜くための”聞く技術”

第7回 テレビは「聞く力」をどう変えたか

複雑なものを聞く忍耐力を失わせる犯人は誰?

 今が「聞かない時代」と呼んでもいい状況に陥ってしまっていること、そしてその理由や背景をこれまで一緒に考えてきたよね。でも、そこにもうひとつ付け加えておきたいと思う。

 これはぼくが関わってきた仕事とも大いに関係がある。つまりぼく自身にも責任があることを認めなければならない。

 きょう話したいのは、テレビが「聞くこと」に与えた影響だ。

 どれだけ見るかは別にして、たぶんみんなの家にテレビはあるんじゃないかな。今はテレビが当たり前の生活になっているけれど、放送が始まったのはもうずっと前、戦後と呼ばれていた時代のことだ。

 それまで国民の情報源はラジオだった。人々はラジオで真珠湾攻撃を知り、ラジオで日本が戦争に負けたことを知る。人々は生まれて初めて聞く天皇陛下の肉声を一言も聞き漏らすまいと、必死でラジオに耳を澄ました。

 もちろん戦後もラジオ放送は続いた。戦争の後遺症で日々の暮らしもままならない中、ラジオは情報源であると同時に、生活に潤いを与える娯楽でもあった。ラジオは映像がないため、音がすべてだ。だから人々は聞き漏らすまいと、自然と神経を集中することになる。家族がみんなでラジオのそばに集まる光景が、当時は日本中で見られたはずだ。

 ところが1953年に音声だけでなく、映像もお茶の間に届けられるテレビ放送がスタート。ラジオは次第に主役の座をテレビに譲ることになる。

 始まったばかりの文化には豊かな才能が流れ込み、意欲的な実験が繰り返されるのは歴史の常だ。ドキュメンタリーは作り手のメッセージをぶつける熱いものや、実験的、前衛的な手法をとりいれた作品がたくさん生まれたし、ドラマやバラエティーもタブーをあえて破ろうとしているかのような自由さがあった。何より作り手たちのなかに、自分たちは時代をつくっているという使命感が強烈にあったのだと思う。

 ところが子どものうちは少々羽目を外しても大目に見てもらえるけれど、大人になったら社会の目がうるさくなるように、その影響力を増すにつれて、テレビはお行儀よく振る舞うことを求められるようになった。

視聴者を逃さないための工夫の先にあったもの

 芸術家が行儀よかったためしはない。テレビは文化の担い手としての意識をだんだんと失っていく。そしてそれと並行するかのように、ニュースとスポーツ、ドラマとバラエティーというメニューをそろえた大衆娯楽を提供する巨大産業となり、テレビ局同士で激しい視聴率競争を繰り広げることになる。さらにはインターネットといった新しいメディアが誕生すると、どうしたらテレビに客を引きつけられるのか、どうしたら視聴者を逃がさないか、もっと言えばどうしたらチャンネルを変えられないかという意識を、作り手はより強く持つようになっていく。

 そうすると、何が起きるのか。

 一部の人間だけが興味を持つものではなく、多くの視聴者が見たいものを放送しようとするようになるだろう。そのほうがいいに決まってる、一部の人だけが興味を持つ偏ったものよりも、多くの人が見たいと思う普遍性をもつ番組のほうがいい。そう考える人もいると思う。

 でもコインには表と裏があるように、ものごとにはいつも別の側面がある。光があるところには、必ず影ができるのだ。だから、みんなにはできるだけ両方を見る習慣をつけることを勧めたい。この場合でいえば、多くの視聴者が見たいと思うものを放送しようとすることの持つ、もうひとつの側面だ。

 多くの視聴者が見たいものとはなんだろう。人間はひとりひとり違う。生まれ育った環境も、何に興味を持っているかも、どれだけの理解力を持っているかという知的水準も、誰一人同じではない。

 そんな状況で出来るだけ多くの人に見てもらうには、どうすればいいだろう。

 一番簡単なのは、人間が持つ共通の要素を盛り込むことだ。人間はひとりひとり違うけれど、誰もが持っている共通項もある。たとえば好き嫌いはあっても、食事をしない人はない。そう考えると、グルメ番組がこれだけたくさんあるのもうなずけるだろう。

 恋愛はどうだろう。これも好みは多様だけれど、多くの人が自分のこととして興味を抱けるに違いない。かくして恋愛ドラマから、カップルを誕生させるバラエティーまで、恋愛を盛りこんだ番組がない日はないほどだ。他にも家族や友達といったテーマも誰もが向き合わなければならないテーマだ。さらに喜怒哀楽はどうかな。どんなものに感情が揺さぶられるかは別にして、泣いたり、笑ったり、怒ったりしない人はいないだろう。

「わかりやすさ」の罠

 そう考えてくると、多くの人の興味を引き付けられるものとは、人間の「本能」や「感情」に訴えるものと言えるのではないだろうか。ニュース番組でも強烈なキャラクターを持つ容疑者がいれば、その事件の大小に関係なく、多くの時間をさいて映像を見せている。あるいはスキャンダラスな愛憎劇も、ワイドショーのかっこうのネタだ。

 そこに求められるキイワードは「わかりやすさ」だ。

 面倒な説明なしに、わかってもらえるもの。

 これこそテレビの大好物なのだ。

 テレビのチャンネルを変えるとき、みんなはリモコンを使うよね。昔、まだリモコンがなかったときは、わざわざテレビのそばまで行って、チャンネルを変えていた。そうすると面倒だから、あまりチャンネルを変えようとしない。ところが、リモコンだと指先ひとつだから、ちょっとでも退屈を感じるとチャンネルを変えるようになる。しかも今やテレビの視聴率は1分おきに数字が出て、グラフとして表すようになっているから、どうしたら一瞬たりとも興味を逃さない作りにするかを、常にテレビマンは考えなければならないと言ってもいい。一種の強迫観念のように。

 そうすると「わかりにくい」ものが排除されていくのは、自然な流れだろう。

 まず、複雑でわかりにくいものは極力とりあげない。そしてもし取り上げるなら、途中の面倒なプロセスはやめて、結論だけ示していく。これはこうだからこう、くらいなら視聴者はついてきてくれるかもしれない。池上彰さんがこれだけ引っ張りだこなのは、一見複雑に見えるものを「要するにこれは、こういうことだ」と、平易な言葉で説明する類まれな能力の持ち主だからだ。

 最近、ニュース番組を見てもバラエティー番組を見ても、画面に文字がたくさん出てくる。テレビの用語で文字スーパーと言うんだけど、耳で聞けばわかるものも重ねて文字スーパーを出す。それも色とりどりの大きな文字で。テレビだけに集中している人は少ない、どうせ何かしながら見ているのだから、音と文字の両方があったほうがわかりやすいと思う人もいるだろう。でも個人的な意見を言わせてもらうと、今の状況は過剰だと思う。

 わかりにくいものは避けて、わかりやすいものを取り上げる。しかもさらに親切にも音だけでなく、大きな文字も出していく。視聴者ができるだけ考えなくてもいいように、おせっかいなまでに親切心を発揮しているように見える。

 そしてそれに慣れてくると、視聴者も忍耐力を失っていく。複雑なものには耳をかさず、結論だけを求めるようになってくる。ぼく自身も例外ではない。説明がわかりにくかったりするとテレビ画面に向かってぶつぶつと文句を言っているし、要するに何なの? とすぐに結論を性急に求めてしまう。テレビをつけても、しょっちゅうスマホをながめている。面白くないと、すぐにリモコンでザッピングをし始める。やれやれだ。

 複雑なものを聞く忍耐力を失わせる犯人は、テレビだけではない。ネットではさらにわかりやすいセンセーショナルな見出し競争が繰り広げられているし、フェイクニュースに「いいね」を押している人の多くは、本文を読んでいなかったというアメリカの調査もある。電車で本を読んでいる人を見かけるのは、まれだ。多くの人は、スマホの画面を通して一瞬で流れ去るタイムラインをながめている。常に新しい刺激を求め、反射的に反応する能力は確実についているのかもしれない。しかしその一方で、ぼくたちは複雑なものごとを聞く忍耐力と能力を失いつつあるのではないだろうか。

関連書籍