近年、日本の戦後思想の読み直しが進むなかで、橋川文三(一九二二―八三年)の著作もまた、戦争体験やナショナリズムに関して独自の議論を展開した点において注目されている。
『日本浪曼派批判序説』(一九六〇年)に始まる橋川の思想史研究は、自己の原体験としての日本浪曼派のロマン主義・民族主義を発酵させた「母胎としての心性」の究明にあった。それは、戦前から戦中にかけて反近代と古典回帰を唱えた日本浪曼派、とりわけ保田與重郎の色濃い思想的影響を受けた自らの体験を思想化することを意味した。「私たちの感じとった日本ロマン派は、まさに「私たちは死なねばならぬ!」という以外のものではなかった」。これは、橋川による戦争体験の告白であり、そうであるがゆえに彼の著作は、ロマン主義の思想構造の特質を歴史上に辿る思想史研究という体裁をとりながらも、戦中から戦後に持続する精神構造にこだわる「戦中派」の自己省察の様相を呈しているのである。その思想的作業は、敗戦という「挫折」のなかから探求すべき課題を見出すものであった。
そこに顕著な、自己の精神的体験を原点として思想に接近するという方法は、ナショナリズム論にも貫かれている。橋川は「昭和超国家主義の諸相」(『現代日本思想大系』三一「解説」、一九六四年)において、「超国家主義」のなかに「なんらかの形で、現実の国家を超越した価値を追求するという形態が含まれている」という問題を提起し、そこに「求道=革命的自我意識」の存在を読み取った。ここには、橋川の師である丸山眞男との方法の違いを見ることができる。丸山はファシズムと結び付いた昭和初期の「超国家主義」を「国家主義の極端形態」と見なし、明治期からなし崩し的に拡張した軍国主義的ナショナリズムのあり方を批判した。それに対して橋川は、「あの太平洋戦争期に実在したものは、明治国家以降の支配原理としての「縦軸の無限性、云々」ではなく、まさに超国家主義そのものであったのではないか」と述べ、日本の「超国家主義」を日本の国家主義一般から区別するための歴史的視座を構築するという課題を、強く意識していたのである(詳しくは、拙著『丸山眞男と橋川文三――「戦後思想」への問い』教育評論社、二〇一四年、参照)。
『ナショナリズム――その神話と論理』(一九六八年)には、それまでの自らの研究を、より広い視点から捉え直すことが意図されていた。本書は当初、日本におけるネーション探求を、近代の始まりから概観する目標をもって書き始められた。ここで橋川は、「ネーションの「上から」する強力的創出に対抗して、「下から」のネーション形成の志向はなかったのか」という主題を提示している。序章「ナショナリズムの理念――一つの謎」では、近代ナショナリズムの特質が、その用語と概念も含めて考察される。ナショナリズムの性質について、パトリオティズム(郷土愛)との違いに言及する箇所は、かつて日本浪曼派を「耽美的パトリオティズムの系譜」のうちに捉え、その精神構造と政治の関係を問うていたことを思い起こさせる。続けて、第一章と第二章では、日本のナショナリズムの成立が、幕末から明治初期の思想を辿るなかから検証される。
しかし、橋川は本書において、明治二十年代までを含めることも叶わず、「超国家主義」の精神史にまで辿り着くことができなかった。本書の最後で、自由民権運動とその内部から生まれた玄洋社の思想を辿るなかで、そこに後世の左右両翼への二分法では捉えられない思想運動の存在を示す箇所に、辛うじて初発の関心を見て取ることができる。そこで残された問題は、『昭和維新試論』(一九八四年)を始めとする昭和ナショナリズムの研究にもち越される。
橋川にとって、ナショナリズムの問題は自らの内部への問いであるがゆえに、絶えず思想化には困難が伴っていた。橋川の著作に向き合う者は、彼が抱え込んだ議論の困難性、すなわち、ナショナリズムの病理を内在的に分析することはどのようにして可能なのか、という問いを引き受けることになるであろう。