単行本

彼女たちが闘ったもの
唯野未歩子『彼女たちがやったこと』書評

PR誌「ちくま」より、角田光代さんによる『彼女たちがやったこと』(唯野未歩子著)の書評を公開します。デビュー作『三年身籠る』から12年、ふたたび衝撃の問題作が登場。主人公の二人がやったこと、その意味するところは何なのか。

 二人の女性が登場する。高橋紀子と佐々木詩織。似たところのない対照的な二人であるが、十三歳のときに出会い、十四歳で親友になる。高橋紀子は顔だちも存在も平凡で目立つところはなく、ものを深く考えずに流されるような性格で、デパートの惣菜売り場に勤める母親と二人で暮らしている。佐々木詩織は小柄で華奢な美少女、聡明でリーダーシップもあり、進歩的な両親と裕福な家に暮らす、いかにもはなやかな存在である。十四歳の二人は、「親友の誓い」を立てる。親友のためならば命も投げ出す、というような誓いなのだが、じつはここで、二人は誓いの内容を明言していない。ただ儀式的な異様な雰囲気にのまれ、よくわからないまま聖書の言葉を引用するのみである。それはこの二人のゆく末にとって非常に象徴的であるが、もしかしたら逆に、この儀式が二人のゆく末を決定づけたのかもしれない。
 平凡でものを考えない紀子は、平凡で考えなしの人生をひた走り、結果、夫の暴力に苦しめられている。ならば、非凡ではなやかな詩織は、非凡ではなやかな人生を得るのかと思いきや、はなやかな結婚式を挙げた彼女は、資産家の夫を得るが、同居する姑に家も役割も居場所も乗っ取られ、夫の徹とは早々とコミュニケーションを失う。
 ずっと連絡を取り続けていた親友の二人は、このそれぞれの窮状をある計画で脱しようとする。突拍子のない犯罪的な計画であるが、彼女たちが行おうとしているのは、その計画自体ではなくて、「人生を自分たちで創る」ということではないか。平凡でも非凡でも、持たざる者でも持つ者でも、彼女たちは同様に自分の人生を取り上げられた、あるいはそもそも人生は自分のものではないと感じている。彼女たちの人生をそれぞれの思いどおりにさせないのは、神や運命という人智を超えたものではなくて、身近な男である。無責任で自分勝手で自己中心的な夫や息子たち。だから彼女たちは、彼らから人生を取り戻そうとする。男を必要としない「家族」を創ろうとする。
 その計画が「実行」され、それぞれの窮状を「突破」するはずのときに、しかし彼女たちは、予期せぬ心の動きにとらわれ、その心のままに行動する。二人の行動を俯瞰している私は、馬鹿だなあ、と思う。今までずっと感情的に行動して、うまくいかなくて、だから完全犯罪のごとく入念に計画をたてたのに、なぜそれを自分たちで台無しにして、また感情のまま動くのか。
 無計画の暴走ののちの彼女たちの人生が、順風満帆になることもなく、すばらしい幸運が降り注ぐわけではない。それでも、納得させられてしまうのだ。たしかに彼女たちは、無計画化してしまう計画によって、自分の人生を獲得したのだな、と。自身で獲得した人生において、幸運か不運かなど、もしかしたら取るに足らないことなのではないかとすら思えてくる。「突破」後、無気力と諦めと屈辱の先に、詩織ははじめてみずからの意志を見いだすのだし、世にも愚かしい「正面突破」をする紀子は、はじめて自分が何者か、自分の言葉にするのである。このとき、またしても私は、馬鹿だなあとこの女たちに向けて思うのだけれど、さっきとは、もうまったくニュアンスが違う。いらいらしたり見下したり尊敬したりしながら、ずっと近くで見てきた、憎もうにも憎めないし切り捨てようにも切り捨てられないだれか――もしかして自分自身――にたいして思うように、そう思うのだ。馬鹿だなあ本当に。でもそれが、あなたなんだから、私なんだから仕方がない。
 二人の少女は誓いを自分たちの言葉にしなかった。聖書の言葉を借りることしかできなかった。なぜならきっと、彼女たちはどんなときに「友のために 命を捨てる」ことになるのか、知らなかったからだ。何と闘い、何に負けたら命を捨てることになるのか、何に勝ったら友を守れるのか。自分たちの言葉にできなかったそのことについて、ずっとこの先も考え続けることになるのだろう。彼女たちなりのその答えもまた、人生の獲得のひとつなのかもしれない。
 

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