金田淳子

round.9 『ミッドサマー』

漫画・アニメ・小説・ゲーム……さまざまな文化表象に、萌えジャージにBLTシャツの粋なフェミニストが両手ぶらりで挑みます。うなれ、必殺クロスカウンター!! (バナーイラスト・題字:竹内佐千子)

 さて『ミッドサマー』に出てきた奇祭で、私が最も興味深く思ったのは、クリスチャンとマヤのセックス儀式だ。もう「セックス儀式」という言葉だけでわくわくが抑えられない人がいると思うが、私もそうだ。ツイッターなどでは、笑い交じりに「史上最悪のセックスシーン」だと語られている。

 ヘルシングランドのセックス儀式とはどういうものか。まず村に所属する若い女性(マヤ)と、旅行者である男性(クリスチャン)の双方に対して、セックスの許可が出される。マヤのほうはクリスチャンが相手であることに納得しており、クリスチャンが自分に惚れるようにと、気持ちの悪いおまじないをしたりする。クリスチャンがマヤに惚れることはなかったので、彼は媚薬を浴びせかけられ、心神喪失状態でセックスを強制されることになる。セックス小屋に入ったクリスチャンを、全裸のマヤが、股を開いて出迎える。マヤの周囲には、10人ほどの全裸の女性が立ち並び、囲むようにして見守っている。女性たちはマヤの母親から祖母にあたるような年齢層であり、おそらく全員が経産婦だ。
 ギャラリーにせかされるようにして、クリスチャンはほとんど前戯もなしに挿入する。破瓜の痛みに耐えているのか、マヤが苦しげに伸ばした手を、クリスチャンではなく、一人の女性がしっかりと握る。私の推測だが、マヤの一番近くで手を握って応援するこの女性は、マヤの母親ではないかと思う。女性たちは「あぁ、あぁ、あぁ、あぁ……」と声を挙げ、セックス共鳴コーラスを始める。朦朧として満足に動けないクリスチャンの尻を、白髪の女性がぐいぐい押して、射精を促す。クリスチャンの射精後、マヤは精子をこぼさないように膣を上に向け、受精したと言って喜ぶ。

 このセックス儀式、「周囲を(おそらくマヤの母親を含む)40~60代ぐらいの全裸の女性に囲まれている」「その女性たちが野太い声でセックスコーラスをする」部分が、特に「史上最悪」とされているのではないかと思う。それ以前に、クリスチャンは「媚薬で朦朧とさせられ、意思に反してセックスさせられている」のだが、フィクションとして見たとき、むしろそこは盛り上がり要素になる人が多いと思われる。自分の責任が一切問われない状況で、若い女性(処女)との「セックス儀式」を強要される、というのは、特に異性愛男性にとって、まあまあ人気が出そうなファンタジーだ。しかしここまでいい感じにお膳立てされた舞台が、「女性として魅力がない」中高年女性のギャラリーとコーラスによって台無しにされる。そこが「史上最悪」であるし、お膳立てがあっただけに、どこか「嫌がらせ」のように感じる人もいるのではないかと思う。

 私も「セックス儀式」系のポルノファンタジー(特にBL)については、ついつい購入ボタンをクリックしてしまうタイプの人間なのだが、しかし『ミッドサマー』のこの場面を「史上最悪」とか「笑える」とは思わなかった。
 というのも、どちらかというとマヤの気持ちになって見ていたからだ。ひとたびマヤの立場になってみたとき、納得できているとはいえ、よく知らん旅行者の男との初体験というのは、期待よりも不安に満ちたものだと思う。しかしこのセックスだけはどうしてもやり遂げなければならない。そんな時、一人で挑むのではなく、母親をはじめとする、信頼できる経験豊富な女性たちに見守られているというのは、これ以上ないような安心できる状況なのではないか。逆から見れば、マヤは女性たちから監視されている状況なのだが、共同体に完全に溶け込んでいるマヤからすると、頼もしい応援団に思えるだろう。コーラスについても、応援団が他人事のようにマヤたちを鑑賞しているのではなく、自分たちもセックスの一員であるという認識で参加しているのだとすると、不可解なものではない。つまり、私にとってこのセックス儀式は、「斬新だが、なるほど、わかる」というものだった。

 いやそもそも、相手と十分な信頼関係を築いてからセックスに臨むのが、最も安心できる状況では? という正論は、ちょっと脇に置いてほしい。そもそもクリスチャンが無理やりセックスさせられているという人権侵害すらもいったん脇に置いているのだ。さらに念のために申し添えるが、私もこの儀式について「オナニーに使える」とか「こういうセックスをしたい」とは思っていないので、心配ご無用だ。私の性癖的にグッと来たので擁護しているわけではない。

 ヘルシングランドでのセックスは、共同体によって許可が出されるという事実に端的に表れているように、二者間の特別なコミュニケーションではなく、あくまで共同体の持続のための生殖行為だ。共同体によって性と生殖が管理され、自己決定が許されず、プライバシーもないという点ではこの上ない地獄なのだが、ひとたびそれが与件である社会を思考実験してみてほしい。「セックス儀式」と聞いてわくわくしてしまう、私のような人間にとっては、この思考実験はおなじみのものだ。おなじみの題材だからこそ、クリエイターの創造性が試されることになる。
 そもそも『ミッドサマー』はフィクションなので、もっと別様のセックス儀式が描かれてもよかったはずだ。一人の男性に対して若い女性たちが奉仕するとか、交わる男女の周囲を屈強な男性たちが取り囲んでいるとか、はたまた渦中の男女が見つめあって一瞬で恋に落ち絶頂を迎えるとか、そんな凡百のポルノのような儀式であっても、それなりの理由をつけることはできる。それらの見慣れた情景は、観客を安心させることができたと思う。
 しかし『ミッドサマー』では、この村にはそれがふさわしいという監督の思想性によるものだろうが、あえて「この村で初体験をする女性にとって安心できるような儀式」が描かれている。性と生殖と死を共同体が管理し、そんな共同体に個人が同調するというこの村で、セックスが二者の秘め事でなく多人数の共同作業のように描かれ、マヤが相手のクリスチャンよりも共同体の年嵩の女性たちと寄り添いあうのは、きわめて筋が通っている。

 結果として、多くの男性観客や女性観客から、「史上最悪のセックス」と評されてしまっているわけだが、それこそが監督の望んでいたことであり、最大の賛辞になっているとも思う。クリスチャンがそうであるように、性と生殖が切り離され、共同体と個人が切り離された社会に生きている私たちの性欲を、十分に喚起できるようなセックス儀式が描かれてしまったら、それはもう、ヘルシングランドではないからだ。

 なお余談だが、主に研究論文を書いた経験のある人々の界隈で、『ミッドサマー』のクリスチャンとジョシュが、「自業自得」「死にたいのか」と罵られている。正直、私も「仮に村から帰ることができても、大学で死ぬことになる」と思った。そういった意味でも、ぜひ鑑賞してほしい映画だ。

【おまけ】
金田淳子が『グラップラー刃牙』について1日30時間妄想した記事が書籍になったよ!

外出禁止令の出ている今こそ、ロフトベッドが熱い! ヘルシングランドの散漫な家具の置き方に耐えられない!という方に!

金田淳子のツイッター → @kaneda_junko

 

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