些事にこだわり

マイクの醜さがテレビでは醜さとは認識されることのない東洋の不幸な島国にて

蓮實重彥さんの短期集中連載時評「些事にこだわり」第2回を「ちくま」7月号より転載します。テレビというメディアの鈍感さ、が放置される日本という国の鈍感さについて。

 そもそもが雑駁な装置にすぎないテレヴィジョンというものの視覚的メディアとしての役割はとうの昔に終わっているから、いまさらその悪口をいったり文句をつけてみたりしても始まるまいが、そのちっぽけな画面に対する蔑みの思いは、いまも収まることがない。そう、わたくしはテレビというものを侮蔑してきたし、いまも侮蔑しているし、これからもまた侮蔑し続けるだろう。だからといって、それがしかるべき社会的な態度の確かな表明だなどといいつのるつもりはない。あたかも視覚的なメディアであるかに振る舞っているテレビというものが、本質的に音声メディアにほかならぬという厳然たる真実を、その装置をあげて隠していることが醜いというだけのことだ。
 実際、映画の画面とテレビの画面とを較べてみると、その違いは歴然としている。あくまで視覚的なメディアに徹している映画では、マイクロフォンという録音器具は間違っても画面に映っていない。実際、撮影にあたってのキャメラマンの最低限の慎しみは、マイクが床の上や壁などの表面に影としてすら映っていないようなアングルを選択することにあるからだ。キャメラの近くに添えられているマイクを画面から排除することが、撮影の基本だからである。ところが、テレビの場合は、ほとんどの画面で、出演中の男女の胸もとにちっぽけなマイクが見え隠れしており、ときには、マイクを吊した長い棹を握る男どもがうろうろしているさまを画面から遠ざけようとすらしていない。このだらしのなさがいかにも醜いのである。
 もっとも、七十年近くも昔の中学時代に見たものだから記憶も曖昧だが、たしかレイ・ミランドRay Milland主演の西部劇『午後の喇叭』(Bugles in the Afternoon, ロイ・ローランド監督、1952)だったと思う作品で、合衆国騎兵隊とインディアンとの熾烈な戦闘のさなかの画面に、いきなり長い棹の先に吊したマイクが画面に映っていたので、一瞬のこととはいえ吃驚仰天した記憶がある。いまは八十五歳にもなっている後期高齢者として、ひとまず作品の題名はそれに間違いなかろうとおぼつかなく断言しておくが、本来であればNGであるはずのショットがなぜ公開版に残ってしまったか、その理由はわからない。おそらく、監督が、どうせ観客たちはそんな些細なことなど気づきはしまいと居直ったのだと想像される。ところが、東洋の島国の少年の目は、それを明らかな編集上のミスとして見とどけてしまったのだ。
 いうまでもなかろうが、作品の中のフィクションの人物がたまたま歌手だった場合には、もちろん、ミキシング・ルームでの録音の光景や劇場での歌唱のシーンなどでは、彼ら、あるいは彼女らが堂々とマイクを握っていたり、それを前にして歌っている光景を目にすることがある。例えば、イーストウッドの『センチメンタル・アドベンチャー』(Honkytonk Man, 1982)のナッシュヴィルのレコーディング・ルームの場面などがそれにあたるが、引かれた例が古すぎるというなら、レネー・ゼルウィガーRenée Zellwegerがジュディ・ガーランド役を演じた『ジュディ 虹の彼方に』(Judy, ルパート・グールド監督、2019)などを挙げておけばよかろうと思う。
 そこで、テレビにおけるマイクの視覚的な顕在性についていうなら、そのだらしのなさにおいて想像を絶するものがある。複数の人物が円卓を囲んで討論する番組などでは、『午後の喇叭』で一瞬見えた長い棹に吊したマイクが、NGであるどころか、これ見よがしに映っているからだ。また、ニュース番組などの場合、NHKのものであれ、民放のものであれ、アナウンサーの胸や首もとには、きまって小さなマイクが添えられている。
 たまたま今晩のNHKの「ニュースウオッチ9」を見てみたところ、女性キャスターの和久田アナウンサーは、胸もとが細くV字型に裂けた趣味のよい薄グリーンの衣裳をまとっているが、そのV字の切れ目の向かって左はしに小さいことがその醜さをいささかも軽減することのない不細工なマイクを装着されており、それが胸もとに覗く金属製――素材が何かは判別しがたい――のネックレスと相殺しあい、いかにも惨めである。また、「news23」のキャスター小川アナは丸首の白いブラウスをまとっているが、首の下から伸びた黒いコードが白い衣裳を醜く彩っており、陰惨きわまりない。
 女子アナといえば、テレビ芸人有吉某と結婚したばかりの夏目三久も、「ブラタモリ」でいきなりブレークした桑子真帆も、出演者たちをタメ口で鼓舞しているうちにヴァラエティー的な人気者になってしまった弘中綾香も、こうした潜在的な女性蔑視につながるマイクの可視性には絶望することなく、ひたすらそれにたえ続けたのだと思う。ことによると、視聴者たちの美意識のまったき不在に同調していないと、人気者にはなれないと諦め、マイクの呪縛などまったくなかったことにしていたのかもしれない。
 ちなみに、「ニュースウオッチ9」の男性キャスターの田中記者も、背広の襟の向かって右側に小型マイクを添えているが、そのことによる画面の劣化効果についてはひとまず黙っておく。ただ、女性の衣服にふさわしいマイクを創造しえていないという技術的な欠陥が、結果として、無意識の女性蔑視の風潮を煽りたてているような気がしてならない。例えば、風雨の中で必死に現場中継をしている嵐の日の女性記者たちは、あたかも勃起した男根さながらのマイクを握りしめ、ゴムで被われたその亀頭部分にひたすら唇を近づけたりしていることが多いが、そんな卑猥な光景が平気で許されているのも、音声メディアとしてのテレビが本質的にだらしのないものだからだろう。断るまでもなく、わたくし自身が、そうした醜い想像をひそかに楽しんでいるわけではまったくない。ただ、マイクという素材の形態的な不快さが、誰の目にもそう思わせてしまうというだけの話だ。
 もっとも、無意識であろうが意識的であろうが、男性が蔑視されることには何の心の痛みも感じることがない。例えば、裸になることが自慢の芸人たちは、胸もとに止める小型マイクのコードを肌色のガムテープで胸の皮膚に密着させたりしているが、その醜さたるや目もあてられない。だが、ことによると、それがテレビという音声メデイアにふさわしいだらしのなさなのかもしれぬ。では、だらしのなさを誇示する可視的なマイクが必死に拾いあげようとする音声とは、テレビにとってどれほど重要なものなのか。

 音声メディアとしてのテレビ番組でも、好んで見ているものがないわけではない。例えばMLBの好プレー集など、毎回決まってというわけではないが、たまたま目にすると決まって最後まで見てしまう。ごく最近のものでは、強烈なピッチャー・ライナーを左手のグラブで弾きとめ、目の前に舞い上がったボールを右手で軽々つかんでアウトにする大谷翔平投手の余裕のあるプレーなど、見ていて何とも快い。そこでのアナウンサーたちが口にしてるのは、統計をとったわけではないがWounderful!は意外に少なく、What a play!に始まり、Beautiful!、Splendid!、Surprising!、Extraordinary!、Exceptional!、Tremendous!、等々、である。アナウンサーが思い思いの異なる形容詞を駆使して大声を張り上げて実況を盛りあげているさまは、さすがだと思う。この番組で八十五歳にして初めて覚えたのは、日本語でフェンスと呼ばれているものが英語では単なるWallにすぎないということだ。ところが、わが国における野球中継では、アナウンサーも解説者も、あらゆる驚くべきプレーを、もっぱら「スゴイ!」の一語で片づけてしまう。
 芸能人どもが集う美食番組では、男女を通じて誰もが「ウマイ!」と絶叫している。粗雑な日本料理にすぎないナポリタンなどというものが、味わうべき繊細な味におさまっているはずなど間違ってもないというのに…… 。さらには若手の女性芸能人どもが集うさるモード番組では、あえて数えてみたところ、十分ほどの間に「カワイイ」の一語が十七回も発せられていたのである。誰もが「カワイイ」と口にすれば許されると思っているようなのだが、「カワイイ」ドレスなどたかが知れている。女性の衣裳であれば、瀟洒な趣味のよさこそが求められているからだ……。これを同調圧力の支配などと呼べば、その原語である《Peer Pressure》という社会学的な術語が途惑ってしまうだろう。こうしたものは、とりわけ語彙の貧弱な某氏が内閣総理大臣の地位にある国にふさわしい現象にすぎまい。
 ちなみに、某番組では、たったいま美容院から出てきたばかりに見える髪型のD某夫人の華麗すぎる衣裳の襟元にも、小さなマイクが醜く揺れている。

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