些事にもあたらぬごく他愛のないできごととして処理されてしまったので多くの方がすでに忘れておられるとは思うが、まだ世の中があの「平成」というごくぶっきらぼうな年号だった時期に、俗にいう「首相官邸無人機落下事件」という不穏なできごとが起こっていた。あるとき、職員の一人が、官邸の屋上ヘリポート近くに、いつからそこに位置していたのかまったく不明な黒塗りのドローンを発見したというのである。それがごく普通な一人の職員によってなされたもので、首相の身辺警護にあたる専門職の一員でなかったことが、事態に不穏な色合いをにわかに高めることになる。この国は、自衛隊という組織の存在にもかかわらず、こと防衛に関しては、ほぼ素人同然のことしかやっていそうにないからだ。
ところで、あたかも偶然であるかのように首相官邸の屋上で発見されたその「無人機」なるものは、さる中国企業が製作したPhantomと呼ばれる機種で、いつからそれがその場に鎮座していたのかは不明とされていたが、さるテレビ局の記者によると、その日の昼近くに、首相官邸の周辺を黒い物体が行きかっているのを目にしたという。これはまぎれもなくテロリズムにほかならず――いま旧ソ連圏で行使されているように殺傷が目論見られていないとはいえ、ドローンの標的はあくまで首相官邸だったのだから――、その防禦という観点からすれば、それが飛翔している時点で迎撃し、撃墜されねばならぬはずだったと思う。
それを実践しえなかった自衛隊――あるいは首相の身辺警護の組織――は、いったい何をしておったのかと驚かざるをえない。この種の新たな飛行物体の飛翔を規制する法律がまだ整っていなかったとはいえ、こうした組織の防衛能力には深い疑念をいだかざるをえない。そのドローンにはプラスチック製の容器が搭載されており、中からはセシウム134と137なるものが検出されたというのだから、それだけでも物騒きわまりない事件だったといえようが、かりにより殺傷能力の高い火器でも搭載されていたとするなら、首相の生命に危機が及んでも一向に不思議ではなかった。幸い、それで傷つく者は皆無だったが、これはまぎれもなくテロリズムの一環にほかならず、それに相応しい処置がとられて然るべきだと思っていたが、どうやら議論はそうした方面に向かうことなく、ごくあっさりと終息してしまったようだ。ちなみに、そのドローンとやらを首相官邸に向けて飛ばした男は、元自衛官だったという。
その不発に終わったテロリズムについて、首相官邸の警護の責任者、ひいては公安内部で厳しい譴責処分が科されて当然と思うが、そうした処置がとられたということは、寡聞にして耳にしたことがない。だが、そのとき、わが国の総理大臣の身辺警護なるものが何ともいい加減で、思いきり周到さに欠けるものだと判断したわたくしは、この人物が公衆の面前でいつ殺害されても不思議ではないと、心底から危惧していたのである。
不幸にして、その予感は的中してしまった。ほんの数年前に総理を辞したばかりのその人物は、ごく最近、さる県警とSPによる身辺警護の徹底的な不備によって、選挙の応援演説中に狙撃され、命を落としてしまった。その惨劇の犯人と目されているのは、これまた元自衛隊員だというのだから、ああ、またしてもと思わず嘆息せざるをえない。これが偶然の一致とはとても思えぬからだ。首相官邸をドローンで狙ったり、元首相を自家製の銃で狙撃したりしたのは、いずれも、元自衛官たちだからである。かつてこの組織に属していた者たちは、どうやら、誰もが申し合わせたように、同じ人物を標的とするという性癖を持っているらしい。いったい、そこでは、どのような教育がなされていたのか。
しかし、ここでの話題はそれにつきるものではない。おのれの国の元首相の生命さえ護れなかったのだから、この国の政府――とは、いったい何か――には、国民の命など護れようはずもなかろうと確信できることが重要なのだ。それは、改めて蔓延しつつある愚かな疫病をめぐって、誰もが漠とながら勘づいていることにほかならない。実際、「発熱外来」とやらがパンク寸前に追いやられても、首都圏周辺の地方自治体のいくつかが孤独に事態の改善を試みようとしているだけで、国――とは、だが、何か――がその状態の改善を試みようとする気配など、これっぽっちも感じられない。では、感染したり濃厚接触者になったりした国家公務員や地方公務員は、はたして医師の診断書なしで自宅療養に入りうるのだろうか。はたまた、自衛官の場合はどうなるのか。いずれにせよ、高齢者向けのワクチン接種の無意味な遅れなど、政府のやることはいつでも遅すぎるというのが、国民の実感なのである。
ところが、無駄なことばかりは奇妙に早い。実際、某県の某駅頭で選挙の応援演説中に狙撃された元首相である故某氏の国葬という処置の発表だけは、不気味なまでに早かった。現在の首相にそれなりの理由があったからだと推測されてもいるが、もとよりそれは推測の域を出るものではない。もっとも、今朝の朝刊によると、さる機関の世論調査では、国民の53%までが国葬には反対するとの意志を表明しているというのだから、早かろうが遅かろうが、政府のやることが国民のためになったためしなどありはしまい。
あえて思い返すまでもなく、マスメディアにおけるこの事件をめぐる報道の多くは、当初、狙撃された元首相とカルト的なさる宗教団体との密接な関係に触れることを、極力避けたがっていたかに見える。報道管制が敷かれたか否かは知る由もないが、男も女も全員が真っ黒々とした喪服姿で不気味に登場していた午後の報道番組などでは、その「カルト的なさる宗教団体」を「旧統一教会」と名指すことをあえて避け、それと政府与党との関係をも曖昧なままにしておこうとしていた気配すらなくもなかった。
実際、午後の報道番組に引っぱり出された識者の多くは、選挙という「民主主義の根幹」にかかわる事態の最中に、一人の暴徒が前々首相の命を奪ったことは、民主主義に対する許しがたい冒涜だと口々に非難していた。だが、冗談も休み休み口にしようではないか。そもそも、問題の前々首相の祖父にあたる元首相が、そのいかがわしい宗教組織の創始者と浅からぬ関係があったことぐらいは、まともな国民であれば、誰もが知っていた周知の事実にほかならない。だとするなら、途方もない額の不法な献金によって家族を壊されたという当の元自衛官が、借金までして自家製の銃をこさえあげ、その銃口を元首相に向けて発砲したという選択は、それがどれほど非難さるべきものだったとはいえ、まんざら的はずれでもなかったことになる。
だが、ここで問題なのは、ほとんどの人が、元自衛官による殺人について語り、その凶行が避けえたかもしれぬという視点に立つ者が一人としていなかったことだ。政府は、あらゆる国民――元首相だって、まぎれもなくその一人である――を、不当な暴力から守らねばならない。そうした視点からの議論がまったくなされていないのは、敗戦直後の戦争責任論に似て不快でならない。日本はもう負けたのだという理由で、政府が一人でも多くの国民をその死から守れなかったのはなぜかという問題を、連合国による戦争犯罪の問題にすり替えてしまったのだから、いまこそ、それにふさわしい議論が行われねばならない。にもかかわらず、どうすれば元首相は殺されずにすんだのかが、まったくもって語られていないという点に、今回の事件の最大の不幸があるというべきなのだ。いつもの通り、防衛という問題が蔑ろにされているからである。
そうした点から視覚資料をもとに殺戮の現場を見直してみると、数だけは動員されたらしい県警も、ごく少数のものだったと判断しうるSPも、全員の視線の方向が一致しており、応援演説者たる元首相の背後に瞳を向けている者など一人としていない。それは、ハリウッドで量産されているボディーガード映画の要人警護の原則からして、素人同然の警備だといわねばならない。また、一発目の銃弾が発射されたとき、SPの一人はからだをはってでも元首相を地面に倒さねばならない。手製の武器だったので、それが銃弾の発射音だとは聞きとれなかったなどという指摘は、要人警護の原則からして素人以下の判断だといわねばなるまい。その意味で、県警もSPも、誰一人として、元首相を本気で守っていなかったことになる。いったい、そんなことが許されてよいものだろうか。そう、いまこそ元首相の実弟なる人物に聞いてみたいと思う。だが、彼は、問題の宗教組織との関係をめぐって曖昧に口ごもるばかりで、防衛大臣として元自衛官に襲われた兄の命を救いえなかったことの無念と責任のほどを、いっさい公言することはない。
やはり、政府は、いざという瞬間に、国民の生命を防衛しようとする意志などこれっぽっちも持っていないと判断せざるをえない。