些事にこだわり

「バーカ!」といっておけばすむ事態が、あまりに多すぎはしまいか

蓮實重彥さんの短期集中連載時評「些事にこだわり」第6回を「ちくま」3月号より転載します。振り込め詐欺詐欺からデジタル庁、そして海のこちらとあちらの首相たち……些事たちが深刻ぶってざわめくこの世界に投げかけるべき言葉とは――。

 このところ、固定電話器にかかってくる電話など碌でもないものばかりだ。実際、ついさきほど、拙宅の前の通りをどうやら警察の車輛が通っていたようで、今日はこの界隈に振り込め詐欺の電話が多くかかっているので、不審な者を見かけたらご一報願いたいとスピーカーで述べたてている。そのとたん、いきなり固定電話のベルが鳴るので息を殺して受話器を取り上げると、それはほかでもない、旧知の映画作家からだった。わたくしのスマホにかけてくれたが、なかなか出ないのでつい固定電話にしてしまったとのこと。だが、すぐには名前が確認できず、失礼な対応をしてしまったかもしれない。事情を説明すると、相手も笑っておられた。
 もっとも、これには前史ともいうべきものがあった。あるとき、世田谷区の職員を名乗る男からいきなり固定電話に連絡があり、かなりの額の還付金があるので、後ほど銀行の者が改めて電話するという。その種のケースは、封書でその詳細が送られてくるのが普通だし、銀行がそれに関与することなどまずありえないので、これは詐欺だと即座に察しをつけたが、還付金は大変嬉しいことなので、ご連絡をお待ちしますといって電話を切った。銀行のわたくしの担当者は女性であり、その名も知っていたが、その後かかってきた電話の主は男性で、わざわざキャッシュカードの番号を訊いたりするので、ではわたくしの担当者にこの電話を繋いで下さいというと、自分は外回りなのでそれは無理だという。
 そこで、それがご無理だというのは、貴方が銀行とは無縁のお方だからでしょうとことさら丁寧にいうと、自分は断乎として銀行の者だから、これからお宅に伺ってもよいかという。では、警察の方と一緒にお待ちしていますから早めにどうぞというと、いきなり相手は無言となる。しかも、この期に及んでなおも電話を切らずにいるので、「バーカ!」といってこちらから電話を切ってやった。その後、念のため、銀行口座の一時的な凍結といった手続きをとるなど多少の面倒はあったものの、見えない相手を久方ぶりに「バーカ!」と罵倒したときの爽快感はいまも忘れられない。すでに悪事が露見しているのに、銀行員だと執拗に名乗り続けるなど、文字通り馬鹿としかいいようがなかった。
 実際、世の中の頓珍漢なことがらの多くは、罵倒というほどの執着もこめず、多少の愛情をこめて「バーカ!」と口にしておけばすむことばかりだ。例えば、公共放送のさるチャンネルに「私はだまされない」という番組があって、振り込め詐欺の撲滅を目ざしているらしいのだが、その被害のほとんどは、「バーカ!」と口にすればすむものばかりである。電話口で対応できるのだからそれなりに判断力のある老人――といっても、その殆どはわたくし自身より若い男女ばかりだ――と推察されるからである。孤立気味の老齢者にはスマホを与え、どうせ碌な話ではないから固定電話には出るなといっておいた方が、振り込め詐欺の予防には遥かに意義深いはずだといっておきたい。

 すでにその名前もすっかり忘れてしまった令和日本の某首相が、あろうことか「デジタル庁」なるものを設置してしまったときも、「バーカ!」といえばすむはずの問題だった。そもそもがアナログ的に機能する制度にほかならぬ省庁というものはデジタル化の対象になどなりえないのだから、デジタル的なものをアナログ的に処理する――彼ら、彼女らの主な仕事は、ほとんどが無駄な作文である――役所を作って、何の意味があるというのか。台湾のオードリー・タン氏とまでは行かずとも、それにふさわしい人材が内閣に一人でもいればすむ問題である。どうやらその冴えない顔つきだけは記憶に甦ってきた元総理は、例えば、『デジタル馬鹿』(ミシェル・デミュルジェ著、鳥取絹子訳、花伝社)という書物があることを知っていたのだろうか。
 もっとも、「馬鹿」という活字が五センチ四方もの大きさで表紙を飾っているこの書物も、必読というほどのものではない。「デジタルネイティブ」と呼ばれる子供たちに必要なことは、次のようなものだと著者はいっているからだ。まず、「『画面』は子どもたちの発達にもっとも重要な三つの柱を根底から覆す」と述べてから「(彼らが)欲しているのは、誰かに話しかけられ、言葉で誘われ、物の名前を言うように励まされ、答えをきちんと言えるように待ってくれること。そして誰かに物語を語ってもらい、一緒に読もうと誘われることなのである」(一七四頁)と著者は書いている。それは、「三つの柱」のひとつである「言語」について述べたものにほかならない。だが、それにしても、言語の獲得をめぐってこれほど凡庸なことを言明するために、人は「認識神経科学」を専攻し、MITで研究を続け、フランスの国立衛生生理学研究所の所長をつとめたりせねばならぬのだろうか。
 ところで、ここで「画面」と言われているものは原語では《écran》となっており、それはいわゆる「画面」を支える基底を意味する言葉なのだから、「液晶パネル」というほどの意味にとっておけばよい。そして、幼児からそればかり見ていると、言語の発達が遅れるというのだが、馬鹿も休み休みにいうべきではなかろうか。というのも、まず、誰もが幼児期にこうした理想的な言語環境に置かれているわけではないし、移民大国のフランスでは、あらゆる国民がそれを母語でできるとも限らない。またかりにそうした環境を享受しえたとしても、長じて優れた言語体験の実践者たりうる保証などどこにもないし、また、幼児期から「液晶パネル」を見ながら、同時にこうした言語環境を生き、優れた言語体験者となることだって充分すぎるほど可能だからでもある。そんなことは絶対にありえないというなら、それにふさわしい科学的なエヴィデンスを示してもらいたい。

 どうやら、このご時世に、デジタルという語彙は「馬鹿」に限らず、その他もろもろの否定的な言辞と結びつきたがっているかに見える。例えば、堤未果には『デジタル・ファシズム』(NHK出版新書)という挑発的な題名の著作が存在するが、そこでも、デジタル的なものへの批判として、上記の書物とほぼ同じような記述が読める。ただし、その場合は一応科学的なエヴィデンスをともなったかたちである。東京大学と二つの研究機関とが共同で、「18~29歳の48人を手帳、タブレット、スマホの3グループに分け、それぞれスケジュールを書き入れさせた後、MRIで脳活動を測定」(二四七―二四八頁)したところ、「紙の手帳を使ったグループは記憶に関する脳活動が活発になり、記憶力の優位という結果が出た」というのである。
 検査対象がたかだか48人だということが気にならぬでもないが、これは一応はエヴィデンスと考えてよいかとも思う。その研究を主催された酒井邦嘉東大教授は、「紙の本とノートを使うことこそ最先端」だと断言され、教科書の「主体は紙という基本を変えるべきでは」ないと結論しておられるのだが、その程度のことを、たかが大学教授から教えてもらわねばデジタルをめぐる事態は進捗しないものなのだろうか。わたくし自身もかつては「たかが大学教授」でしかないものだったが、そんな言葉が述べられるより半世紀も昔にわたくしが書いた教科書『フランス語の余白に』(朝日出版社)の序言には、「視覚的、あるいは聴覚的にフランス語へと接近するのでなく、もっぱら手を動かして、つまり書くことによってそれに同化すべく」作られたこの教科書のいくつもの例文を、「ただ盲滅法に書き写し、ついには原典を見ずに全文がすらすら書き綴れるようになってほしい」と書いていたのである。そして、この方法は、外国語の修得にいまでも有効だと信じている。
 ところで、語彙としてのデジタルは、さらに『賃労働の系譜学』(今野晴貴、青土社)では「封建制」という言葉と結びつき「デジタル/テクノ封建制」という概念にまで発展しているが、それについて触れている時間的な余裕はもはや失せている。そこで、あの「バーカ!」に話を戻すなら、例えば、夕暮れの買い物客で駅前が混雑した時刻に、前と後ろに二人もの子供を乗せて片手で自転車のハンドルを握る若いママさんが、空いている手でスマホなど操作しながら踏切の遮断機にぶつかっている光景などを目にするときなど、ひとこと「バーカ!」といっておけばすむ問題だろう。また、SNSで知りあった未知の男性とつきあっているうちに多額の金銭を騙し取られたという若い女性の不運を伝えるテレビのニュースなども、ただ「バーカ!」といって見すごすしかあるまいと思う。
 たまたま二つの例が女性を対象とする「バーカ!」になってしまったので、男性としては、いまだ名前が思い出せない元首相と大英帝国の某首相に代表して貰うことにする。いくらオックスフォードで学んだって、この御時世に首相官邸でのんびり茶話会を楽しんでいるなど、「バーカ!」というほかはないからである。もっとも、「バーカ!」という至極便利な一語を無闇矢鱈に口にすることは、どうやら、世間的には慎まねばならぬようだ。

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