些事にこだわり

この世には、どうやら珈琲にたっぷりと砂糖を入れねば気のすまぬ世代というものが存在しているようだ

蓮實重彥さんの連載時評「些事にこだわり」第10回を「ちくま」11月号より転載します。長い年月を経て、同世代の日本を代表する大作家との思いがけぬ類似点に気がついたことについて。

「昨夜は」と書き始めはしたものの時刻としてはすでに「一昨日」となり始めており、書き終える頃には「数日前」ということになっていようが、さる九月二十七日に渋谷の上質な映画館で、ジョン・フォード監督の『周遊する蒸気船』(一九三五)について、その上映前に二十分ほどお話をする機会に恵まれた。それが終わってから、その小屋の優雅な女性支配人さまからご褒美に頂戴した芳醇な薫りの珈琲をいまたっぷりとメイカーに入れたところだ。深夜であるにもかかわらず、あるいはそれが習慣化しているのだから深夜であるが故に、できあがった琥珀色の液体にスプーンにたっぷり二杯分の砂糖を入れて時間をかけて賞味し、この文章の構想を改めて思案するつもりでいる。
 と、ここまで書けば、その名を特に秘するまでもあるまい芥川賞作家の磯﨑憲一郎さんが、拙著『ジョン・フォード論』について『文學界』(九月号)に書いておられたことを想起される方がおられても、一向に不思議ではない。驚くべき『日本蒙昧前史』(文藝春秋)の著者である磯﨑氏は、そこでこう書いておられる。「ご自宅に奥様は不在で、蓮實さんが自らコーヒーを淹れて下さった、先に私が砂糖とミルクを入れ、シュガーポットを手渡すと、蓮實さんはスプーン山盛りの砂糖を五杯も、六杯も、冗談ではなくカップの中の液体を全て吸い上げるのではないかと思われるほどの、大量の砂糖をコーヒーに投入した、私は何かの間違いでも目撃しているような恐ろしい気分になった」。
 近くのごく質素な料亭で夕食をとり、その後、拙宅にお寄り下さったときのことを磯﨑氏はそう書いておられたのだが、確かにこれは「何かの間違い」ではなかろうかと思う。わたくしは、自宅で珈琲に入れる砂糖は、かなり大きめのカップにスプーン二杯と決めているからである。ただ、老齢故の健忘症から入れたことを即刻忘れてしまい、さらに二杯分を追加したことなら大いにありうるかもしれぬ。あるいは、読者へのサーヴィスを目論まれ、磯﨑さんが砂糖の量を誇張して書いておられたのかもしれぬが、フィクションの名手である氏の真意を探ることなど、もとよりできはしまい。

 ところが、この磯﨑氏の文章をたまたま読んでおられた元編集者で、かつて大江健三郎を担当する機会もあったという某氏は、「磯﨑さんは、まだまだ甘い!」と即座にいってのけた。蓮實に較べれば、大江さんの砂糖の入れかたの方が遥かに徹底したもので、小さなカップの中の褐色の液体がどろどろになるほどの多量の砂糖を入れた珈琲を、何の衒いもなく愛飲しておられたというのである。それを目にしたという元編集の某氏によれば、どうやらわたくしの砂糖の入れ方に較べて、大江氏の入れ方のほうが、思いきり過激なものであるらしい。
 こうした次第で、わたくしは、二一世紀もその五分の一をすぎたいま、しかも八十六歳という老齢に達してから、あの偉大なる世界的な大作家との類似点らしきものを、初めて思い知らされた。大江氏との類似などまったくなかろうと思っていた後期高齢者としては、何たる驚き! しかも、それが珈琲に入れる砂糖の量だったとは!!!
 昭和十年一月生まれの大江氏は、長じて東京大学教養学部の文科二類――当時の分類によるもので、現在では文科三類にあたる――に入学され、その二年後に文学部の仏文学科に進学しておられる。他方、昭和十一年生まれのわたくしは、早生まれの大江さんとは二学年違いとなるので、ほぼ二年遅れで同じ大学の同じ学科に進学しているのだが、すでに学生時代から小説家として活躍しておられた大江氏とは異なり、俺は、フロベールをめぐるフランス語の博士論文をパリ大学に提出するのだぞなどと口ずさみながら研究者への道をめざし、一九六〇年に大学院に進学した。
 こうして見ると、目ざすところに違いがあるとはいえ、わたくしたちは、ハイティーンから二十代の初期にかけて、ほぼ同じ知的な環境に暮らしていたことになる。渡辺一夫先生の著作に高校時代から親しんでいたという点など、わたくしたちの類似といえばいえるかと思う。とはいえ、その事実は、二人がほぼ同じかたちで、決して少量とはいえぬ砂糖を珈琲に入れるという類似を証明するものではいささかもない。では、問題は何か。
 昭和十年代の初期に生まれた大江健三郎とわたくしとは、いわゆる大日本帝国時代の戦中期をかろうじて知っている世代にあたっている。かつて伊予と呼ばれていた愛媛県の一地方に大家族の一員として生まれられた大江さんが、その幼少年期をどのように過ごされたかは、さまざまな作品を通じてあれこれ想像することができるが、フィクションと現実とのみだりな混同だけは避けねばなるまい。他方、わたくしは、東京がまだ市と呼ばれていた時期の麻布区に生まれた一人っ子で、ひたすら召集されていた父の記憶も曖昧なまま、母親とその祖父母に囲まれて幼年期を過ごしたが、いわゆる戦中期に珈琲というものを飲んだことはなく、それはあくまでも親たちの嗜好品にすぎなかった。

 珈琲という言葉を初めて意識的に耳にしたのは、幼稚園時代に、付き添いの母親たちが――ママトモなどという猥褻な語彙はまだ存在などしていなかった――まあ、大変、アメリカン・ベーカリーでお珈琲が飲めなくなってしまったのよ、などと言い合っていたときである。それは、幼稚園からの帰りがけに親たちが連れて行ってくれたカフェで、現在のアメリカ大使館近くにあったと記憶しているが、物資の欠乏はすでに昭和十七年頃から起こっていたことになる。他方、六本木の交差点から狸穴方面に向かう途中の右手にコクテル堂という喫茶店があり、その二階に漂っていた不可思議な妙なる薫りが珈琲によるものだと知ったのもその頃のことだ。とはいえ、わたくしたち幼稚園児は、いずれもソーダ水ぐらいをあてがわれて満足していた。
 わたくしが初めて珈琲なるものを口にしたのは、戦後の混乱期のことにすぎず、珈琲とはいっさい無縁の褐色の穀物らしきものの粉末を熱湯で濾しただけの褐色の液体に、ズルチン、サッカリンといった人工甘味料を加えただけのもので、親たちは涼しい顔でそれを毎朝飲んでいたが、紅茶の方が早朝の子供の舌に相応しいものだった。当時は食料品の多くは配給制で、列に並ばねば手に入らなかったので、わたくしも動員されて長い行列に加わったりしたものだ。
 そんな窮状を哀れに思ったのか、あるとき母が奇妙に正装し、絶対に離れぬようにと厳命し、渋谷のバスの停車場になっているあたりに林立していた薄汚い闇市の細い路地をわけ入ったのだが、その奥まったところの汚らしい殺風景なテントの前で、見るからに恐ろしそうな男たちに囲まれた。子供心にも危険を察知してせいぜい身がまえたものだが、母はなぜか命令口調でその一人に何やら耳打ちして、然るべき額の紙幣――新円という奴だ――を手渡しているのを目ざとく視界におさめた。どうやら、そこは、進駐軍の物資を横流ししている組織のテントで、やがて汚らしいテーブルの上にカップに入った薫りのよい褐色の液体が提供され、そのかたわらに茶色の砂糖がそえられていた。わたくしは、躊躇なく珈琲にスプーン二杯分の砂糖を加えた。それが、わたくしの口にした生涯初の本格的な珈琲であり、その苦みのきいた甘さは格別なものだった。
 母親がどうしてそんな秘密の場所を知っていたのかはいまもってわからないが、わたくしが初めて本格的な珈琲を玩味したのは進駐軍の存在と無縁ではない体験だったことだけは確かである。とするなら、愛媛県の県庁所在地の高校で進駐軍の文化施設に出入りしておられた大江さんが、その周辺で本格的な珈琲を砂糖入りで飲まれたと想像することも決して不自然ではない。もとよりそれは想像の域をでるものではなく、未来のノーベル賞作家が松山で砂糖をたっぷりと入れた珈琲を飲む習慣を手に入れられたと結論することなどできはしまい。
 しかし、と進駐軍時代をご存じない世代の磯﨑憲一郎さんに申し上げたい。進駐軍体験を持つ世代の者たちは、それ以降の世代には不可思議と映る行動を涼しい顔で演じてみたりするものなのだ、と。だが、わたくしの何かが不可思議な振る舞いと映ろうと、それはいっさいわたくしの責任ではない。それは、当時は昭和と呼ばれていた日本の歴史と深くかかわっている事態なのだ、と。
 

関連書籍