些事にこだわり

「頑張ろう」などと口にするのはそろそろ止めにすべきではなかろうか

蓮實重彥さんの短期集中連載時評「些事にこだわり」第3回を「ちくま」9月号より転載します。この夏は一生ぶんくらいの「頑張ろう」「頑張った」というフレーズを聞いた気がします。しかしそもそも「頑張る」という日本語はなんなのか。結果の是非を視野から遠ざけ、主体を一様に無化する紋切型のおそろしさとは。

 さる原稿の執筆にやや行きづまったので、パソコンの置かれた仕事机を離れ、サロンのソファに深々と身をうずめ、正式には禁煙したことになっているのに何のためらいもなく煙草に火をつけ、見るともなしにテレビをつけてしまう。すると、画面には、めっきりと髪の白さがきわだつピーター・フォークが、例のよれよれのベージュのコートをまとって慇懃無礼な質問を若い男に向けて呟いているので、ああ、『刑事コロンボ』の一挿話の再放映だなとすぐさま合点がゆく。見るからに怪しげなその若い男は、自分で設計したクラブのオープニングが迫っているので、あなたにつきあっている余裕などいささかもないとそっけなく応じるので、コロンボは、ああ、そうでしたね、「どうか頑張って下さい」というなり、その場をあとにする。
 その言葉を耳にして、それが日本語吹き替え版だとすぐさま気づいたのだが、「どうか頑張って下さい」――正確な台詞とはいえないが、「頑張る」という言葉がそこにまぎれ込んでいたのは確かである――とコロンボが口にするのがどうもこの場にそぐわないと感じとり、しばし考えこんでしまう。どうみても外国人としか思えぬ男が、これまたれっきとした外国人に「頑張って下さい」ということじたいが、どこかしら不自然に思われてならなかったからである。そもそも「頑張る」という言葉をオリジナル版ではどんな英語でいっていたのか。ふとそのことが気になり、すぐさま原語版への切りかえボタンを押したのだが、もちろん、物語はそんな仕草を待ってくれるはずもなく、事態は曖昧なままに過ぎさってしまった。のちに番組表で題名を確かめては見たが、あえてそれを記すにもおよぶまい。
 これが、例えばロバート・アルドリッチ監督の遺作『カリフォルニア・ドールズ』のようなピーター・フォーク主演の優れた作品であれば、DVDやVHSをいくつも持っているのですぐさまその場で確かめることもできたはずだが、これがテレビのために撮られたシリーズものとなると、そんな習慣もないのでそうもいかない。だがそれにしても、刑事コロンボは、ことによったら殺人犯かもしれない男に向かって、どうして「頑張って下さい」などとまるで日本人のようなお座なりな言葉を口にしたのか。それは、何しろピーター・フォークが自分の妻を「かみさん」と呼ぶような日本訳で評判になったシリーズなのだから、彼がそう口にしても、さしたる不自然さなどないというべきかもしれぬ。だが、外国人同士の会話にいきなり「頑張って下さい」といった表現が聞こえると、妙に心が落ち着かない。そもそも、日本語の「頑張る」とは、いったいどういう意味の語彙なのか。そこには、語り手のどのような態度が前提とされているのか。

 試みに和英辞典のたぐいを参照してみると、「頑張ります」には、一般に《I will do my best.》といった訳が与えられているが、交渉などの場合、みだりな誤解を与えかねないからあまり使わない方がよろしいといった説明が付されていたりもする。それはそうだろう。「頑張ります」と口にすることは、対話者の心情をほとんど考慮することのない潜在的に自分勝手な振る舞いを前提としているからだ。「頑張ります」といわれると、思わず「頑張りたいなら、勝手に頑張ればよかろう……」といいたくなってしまう。
 例えば、ついせんだっての都議会議員選挙の当日、ある政党の支部から電話がかかってきた。日曜日に固定電話のベルが鳴るような場合、そのほとんどは碌でもない内容に限られているが、この場合は例外的というべきか、とにかく丁寧にこちらの名前を口にしていたので、まんざら出鱈目なものではなかろうと察しはつけたのだが、いきなり、もう投票には行かれましたかと聞かれたので、いやまだです。そもそも選挙には出かけぬことを原則としていますというと、それはもったいないと相手は応じ、ただいまわが党の●●●●は大変「頑張って」はおりますがやや苦戦しており、当選まであと一息といったところなので、どうかこの男を「頑張らせて」やって下さいと男は鄭重に述べたてる。いまいちど投票には行かぬとくり返したところ、「お邪魔しました」という鄭重な言葉で電話は切れたのだが、受話器を置きながら、●●●●さんが「頑張って」いるなら、勝手に「頑張ればよかろう」と呟くしかなかった。
 つい先刻目にしたばかりのさる日刊紙は、某地方都市の市長選に出馬する意向を固めた●●氏が、その出馬宣言をやはり「頑張ります」の一語で締め括ったと伝えている。また、さる政党の実力者である某氏が、自派に属する議員の厄介な選挙区への立候補にあたって、「頑張って貰いたい」と述べたともいわれている。いったい、いつから、「頑張る」ことが、選挙のための政治用語になってしまったのだろうか。そもそも、「頑張る」とはいかなる姿勢をいうのか。それは、特定の主体がある一定の意志を表明している《I will do my best.》とは異なる何かであると思われる。ひとまず対象を限定することなく「頑張る」といっておけばそれですむだろうと、誰もが安心して口にする紋切り型の台詞でしかないような気がする。
 実際、同じ日刊紙の第二面には、広告なのか記事なのかよくわからない「がんばれ!地域の飲食店」という小さな欄がほとんど毎日掲載されている。どうやらそれは、料理のテークアウトを奨励するためのものらしく、その新聞社名とさる信用金庫の名前が並んで印刷されており、ちっぽけな料理の写真の下には「頑張ろう飲食店‼」という大きな文字が掲げられている。ここでの「頑張ろう」は、「飲食店」に対する命令なのだろうか、それとも共感の表明なのだろうか。さる愚かな疫病の蔓延ゆえに、多くのレストランが苦境に立たされているのは理解できる。だが、問題はしかるべき金銭的な「補償」であって、それと店主や従業員たちが「頑張る」こととは何の関係もない。いったい、いつから「頑張れ」ば苦境を乗り切れるはずだなどと考えられてしまったのだろうか。そこには、「頑張れなかった」場合にはどうなるかという失敗例への考慮を欠いた、きわめて抽象的にして無責任なまでに楽天的な姿勢が見えかくれしている。

 楽天的という言葉に導かれていうなら、今年の六月十八日、二〇日、二一日の三日間、さる東北の一都市を本拠地とするプロ野球の楽天ゴールデンイーグルスは、「がんばろう東北シリーズ」なる名のもとに、対オリックス・バファローズ戦の三試合を開催した。それにはオリックスも賛同したというが、このシリーズの命名法には、いうまでもなく、十年まえの東日本大震災の記憶を風化させてはなるまいという不特定多数の意志がこめられているのだろう。それはそれでよろしいかとは思う。
 それに先だち、昨年には、「『がんばろう神戸』25周年記念事業」という催しが関西で開催されていたという。いうまでもなく、「阪神淡路大震災」の発生から四半世紀後のことである。その二五年前のシーズンの「パリーグ」の当時「ブルーウェーブ」と呼ばれていたオリックスには、あのイチロー選手も活躍しており、「がんばろうKOBE」を謳い文句としてリーグ優勝を遂げたこともあり、ことによると「がんばろう」の語句は、そのとき、自然災害を克服するための謳い文句として定着したのかもしれない。
 だが、その「がんばろう」には、ある種の奸策がひそんでいる。「がんばる」と口にすることで視界から遠ざけられたものを、つい見失いがちだというのがそれである。「がんばろう」という言葉そのものが自己目的化して、「頑張る」ことで何を獲得するかという視点が曖昧になり、その背後に拡がっているはずの現実の事態が見えなくなってしまうからだ。それは、社会といってもよいし、歴史といってもよいのだが、そもそも、「がんばろう」には、獲得すべき精緻な対象が何一つとして存在していない。試合に勝つこと、入試に成功すること、ある政策を実行すること、等々、対象らしきものが見えぬわけではない。しかし、それに失敗した場合、涙でも浮かべながら「頑張りました」といえばそれですむ問題でしかない。だから、「頑張りましょう」という言葉など、しばらくは聞きたくないと思う。

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